若(も)し衆生(しゅじょう)を成就(じょうじゅ)する智(ち)を得ば 即ち能く四摂法を具足せん
若し能く四摂法を具足(ぐそく)せば 即ち衆生に無量(むりょう)の利を与えん
仏教では衆生の間にあって生活するに、人間として欠くことが出来ない四つの徳目(とくもく)を四摂法といいます。人間生活の基本としなければならないものです。誰にも出来るほんのちょっとした行い。人の為に役立つ行い。ちょっとした他人に対する暖かな思いやりや心遣い。人の喜びにつらなる行い、それが
四摂法であります。
仏さまの教えは平生(へいぜい)の生活を離れて別にあるのではなく、ほんの少しの親切や暖かい思いやりの実践が大切なのであり、そこに尊い人間のあゆみがあるのだと思います。
四摂法とは、布施(ふせ)、愛語(あいご)、利行(りぎょう)、同事(どうじ)の四つの実践徳目であります。
一、布施 仏のおしえを人々に伝える(法施)、財を施
すこと(財施)等であります。
二、愛語 すべての人々に優しい言葉をかけること。
三、利行 善い行いによって人々に利益を与えること。
四、同事 相手の立場になってやること。協同して仕事
をすることであります。
仏典童話より―
祇園精舎のはずれに、荒れ果てた小さなお堂がありました。
その薄暗がりのなかに、まだ五十そこそこの坊さんがぐったりとなって寝ていました。
身動きも出来ない重い病気だったのです。
お釈迦さまは、その日の説法をすまされると、アナンを連れて、前々から気になっていたその病人を見舞いに行かれました。
大小便は垂れ流しでありまして、ムッと嫌な臭いがしていました。
戸を開け放って、お釈迦さまは言われました。
「誰も看病してくれないのかね」
「はい」
「なぜなのですか」
「はい、わたしは今まで他の人々の世話をしてあげた ことがなかったからです」
お釈迦さまは、優しくうなずかれました。
病人には、自分のこれまでの冷たい心の姿がわかりはじめて懺悔の心の様子だったからでありました。
それで、アナンに水をくんでこさせ、病人の身体をきれいに洗っておやりになりました。汚くなっている寝床もきれいに掃除しておやりになりました。
そして病人は七日間も、ろくに食事をしていなかったので、精舎から麦粉のだんごを持って来させて、食べさせておやりになりました。
病人は、落ち窪(くぼ)んだ目から、ぽろぽろと、涙をこぼしながら、
「お釈迦さま、もったいのうございます」と言って、おがんでよろこびました。
あくる日、お釈迦様は精舎で修行する、たくさんの、お坊さんを、ひとところに集めて、力を込めて、お話になりました。
「小さなお堂にひとりの坊さんが病気で寝ていることを みんなは知っているだろう。なぜ看病してあげないのかね」
みんなは答えました。
「あの坊さんは、自分のことばかり考えていて心が冷たく、誰にも親切にしてくれたことがありませんでした。だから見舞ってやる気にもならないのです」
「誰も世話をしてあげる者もいないから、あの坊さんはガリガリに痩(や)せ衰(おとろ)え、今にも死にそうになっている。あなたたちは同じ社会に生きる人々ではないかね。それなのに、それ見ろ、そうなるのが平生の振る舞いの報いなんだと言って、平気でいていいのかね。よくよく考えてみるがよい」
とおっしゃいました。お釈迦さまは、いちだんと声を張り上げておっしゃいました。
「仏さまのおめぐみとは、してくれたからしてかえすというものではなく、してくれようがくれまいが、してあげずにはおられないという、清らかで優しい心なのですよ。それがわからないのかね」
すると、みんなはいっときに立ちあがって申しました。
「お釈迦様、どうかお許し下さい。今まで私たちは小さなことにこだわっていた自分が恥ずかしく思います。
これからすぐに行って行き届いた看病をして、きっとあの病人を良くしてみせますから。ただいまのお叱りのお言葉を心の芯にとどめて、いつまでも忘れはいたしません。ありがとうございました」
これは、お釈迦さま自らの四摂法の実践なのでございます。現在の世の中にも、このようなことが、ずいぶんございます。
教えを聞く者は、社会の中にあって、この四摂法を実践して世界の平和を願ってこそ尊い姿なのであります。
私の近くの方で八十二歳のおばあさんが元気で毎日、ありがたい、ありがたい、仏さまに守られて生かさせていただくこの身が幸福と喜んで広宣流布(こうせんるふ)に精進して、少しでもこの世にいる間、何かのお役に立ちたいと願って徳を積んでいらっしゃいます。
以前のこと、足が痛くて立ったり座ったりするのに困って、歩くことも不自由でございました。
「先生、私はこの足さえ痛くなかったらといつも思っておりますが、どうしたら良くなるのでしょうか」
「仏さまは『三界(さんがい)は我が有(う)なり、その中の衆生は我が子なり』とおっしゃっています。「我が有なり」と言うことは、この世界にある、ありとあらゆるものは、皆わたしの分身である。と言うことなのです。
どんな物でも、わたし達を守って下さる仏さまの分身なのです。おばあさん、毎日、痛い痛いと言って歩いていらっしゃいますが、裸足で歩いていらっしゃいますか」
「とんでもない ゾーリを履いています」
「そのゾーリがあればこそでしょう。ゾーリの身になってごらんなさい。おばあさんのような重い身体を乗せて、それに引きづられて、身をすり減らして、おばあさんを運んで下さるのではないかね。そのゾーリが文句も言わず、守って運んでくれる有り難さを思ったことがありますか。
『ゾーリさま わたしのような重い身体を乗せて運んで下さいましてありがとうございます』とゾーリを拝んで感謝してごらんなさい。どんな物でも仏さまの分身と思いお陰さまで守って生かされている事を思って感謝して下さい。きっと足も良くなって、すいすいとどこまでも楽に運んでいただけるようになりますよ」と私はお話をいたしました。
それから、このおばあさんは、ゾーリさま今日もよろしくお守り下さいと感謝していらっしゃいましたが、いつしか足の痛さも治ってまいりまして、仏さまの分身に守られて生かされる身の幸福と喜び、何かお役に立ちたいと宝塔配布をしてくださったり、ますます元気で精進して下さいます。
このご法に縁あって、仏さまと共に生きる尊さを喜んでおられます。
小さな徳、小さな暖かい思いやり、その積み重ねこそ功徳を生む尊い姿なのであります。
合掌
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