『子は祖(そ)を以て尊しと為し、祖は子を以てまた尊しと為す』とある。これは子は先祖・親を尊び、その徳に感謝することであり、先祖・親もまた子孫に尊ばれる生活をして子孫に徳を残すことを教えたものです。
ですから、先祖・親を大切にする人は年老いて子孫に大切にされますが、先祖・親を大切にしない人は、子孫から大切にされない結果になります。この因果の法則はどのような時代が来ましても不変のものです。
最近はとくに胎教(たいきょう)によって頭の良い子に恵まれる方法がはやっているようですが、この胎教を良くすると言うことは非常に大切なことですから是非とも新しい生命を生み出される若いお母さん方は取り入れてほしいことです。だが最近の胎教は頭の良い子を生むことばかりに囚われて、人間として一番大切な心を忘れているのではないでしょうか。頭の良くなる胎教に励むお父さんやお母さんの人間性が貧しかったら、貪欲(とんよく)であったり、自己主義(自己主義な人は、人を粗末にするところがありますから、晩年は家族や大衆から粗末にされて、哀れな人生を過ごすことになる)であったりしたのでは、生まれて来る子はどうでしょう。頭が良くても悪賢い智恵が働いたり、自分勝手な人間に成長したのでは、親が泣きを見るだけではなく、社会にまでも多大な害を及ぼすことにもなるのではないでしょうか。頭の良い子に恵まれた方がよろしいのですが、その優れたものを親のため、社会のために役立てて生きる豊かな人間性は各人の性質の善し悪しによるのではないかと思われます。
人の性質についてお釈迦様は、このように説いておられます。
一、人の性質は、ちょうど入口のわからぬ藪(やぶ)の如くに分かりにくいものである。そしてこれに比べると、獣(けもの)の性質はかえって分かりやすい。この分かりにくい性質の人間を分けて、次の四種類とする。
一つは、自ら苦しむ人で、間違った教えを受けて苦行する人。
二つは、他を苦しめる人で、生物を殺したり、盗みをしたり、その他いろいろ酷(むご)い仕事をする人である。
三つは、自ら苦しむと共に他をも苦しめる人で、人の上に立つものが間違った教えによって苦行をし、自ら苦しむと共に周囲の人々までも苦しめる人。
四つは、自らも苦しまず、また人をも苦しめない人で欲を離れて安らかに生き、仏の教えを守って、殺さず・盗まず・清らかな行いをする人である。
また次の四種類の人がある。
一つは、闇(やみ)より闇に入る人。二つは、闇より明るきに入る人。三つは、明るきより闇に入る人。四つは、明るきより明るきに入る人である。
この第一の闇より闇に入る人とは、今世は貧しい生を受け、その上、仏を信ずることなく、心卑(いや)しく、施すことを知らず、邪見(じゃけん)にして悪をなし、死後、苦しみの世界に入る人である。
第二の闇より明るきに入る人とは、この世では貧しい生を受けても仏を信じ、心崇高(すうこう)にして施しを好み、清い行いを積んで、死後、苦しみのない世界に入る人である。
第三の明るきより闇に入る人とは、この世で富み栄えながら、仏を信ずることなく、心卑しく、施すことを知らず、邪見にして悪をなし、死後、苦しみの世界に入る人である。
第四の明るきより明るきに入る人とは、この世では富み栄え、仏を信じ、心崇高にして、施しを好み、清い行いを積んで、死後、苦しみのない世界に入る人である。
また世に三種の人がある。岩に刻んだ文字のような人と、砂に書いた文字のような人と、水に書いた文字のような人とである。
岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立ててその怒りを長く続け、怒りが彫り込んだ文字のように消えることのない人を言う。
砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人を指す。
水に書いた文字のような人とは、水の上には文字を書いても流れて形をなさないように、人の悪口や不愉快なことを聞いても、少しも心に跡を留めず、温和な気の満ちている人のことを言う。
また他の三種の人がある。
第一の人は、その性質が知りやすく、心たかぶり、軽はずみであって常に落ち着きのない人。
第二の人は、その性質が静かに謙虚で、物事に注意深く、欲を忍ぶ人。
第三の人は、煩悩(怒り・貪欲・愚痴)のない人である。
このようにいろいろと人を区別することが出来るが、その実、人の性質は容易に知り難い。ただ仏だけがこれらの性質を知り抜いて、いろいろに教えを垂れ給うのである、と説かれている。所謂、人の眼は上部を偽って、ごまかすことは出来ても『仏は常に見てご座る』と言って、仏の眼をごまかすことは出来ないのです。
私たちは、人間としてやらねばならない事を、心掛けね
ばならない事を、やりもしなければ、思いもしない。そんな人に限って、やってはならない事を平気でやり、思ってはならない事を平気で思う。だがその善悪の行動も善し悪しの思いも、その時に応じて種として蒔かれているのです。それがやがて時を経て、縁にふれて、芽生えて来る、これが運命である。
個人の性質が運命の種を培養しているのですから、自分の運命を幸福にしたい人は、善根(ぜんこん;良い報いを招く原因となる行い)を積み重ねることです。これを続けたならば、功徳(善行に対する仏の恵み)が与えられる。
今日を反省懺悔して善根を積み、明日に向かって今を生きて下さい。誰でも幸福になれます。
皆さんもよくご承知の鬼子母神(きしもじん;悪者の代表のように言われた)の大勢の子供の中から末っ子のビンガラをお釈迦様が弟子に言いつけて精舎に隠しました。鬼子母は気が狂うほど心配してビンガラを捜しました。
そこでお釈迦様(仏陀)は、
仏 陀 「鬼子母、なぜそんなに泣いているのか」
鬼子母 「私が留守のうちに子供を失ったのです」
仏 陀 「なぜ家を留守にしたのだ。その時お前は何をしていたのだ」
その時、鬼子母は他人の子供を盗んでいたから一言も答えられなかった。
仏 陀 「お前は自分の子を愛するか」
鬼子母
「愛しています。少しも離れたくありません」
仏 陀 「他の母親もお前と同じ気持ちであろう。わかるか」
鬼子母 「後悔しています」
仏 陀 「その誠意をなんで見せるか」
鬼子母 「仏陀の教えの通りに従います」
我が子を返された鬼子母は、生活のなりわいに人の子をさらって生きていく事を止め、罪滅ぼしとして守護神になるための精進に励み、現在日本においても信仰の対象としてお参りされるようにもなっていますように、自分の過去を反省懺悔して、善根を積むことは性質に潤いを与えることにもなります。
自分の心がカサカサの状態では運命が調子よく回転していくことはありません。心に潤いがあれば、ものの見方も考えにも深い智恵が定まります。
その深い悟りの智恵は、迷いに溺れがちな心を克服してよく忍ぶ事が出来ます。忍ぶ事を知らない人は善根に遠ざかるのです。
皆様、先を見通す智恵と潤いのある心で、豊かな人生を築いて下さい。
合 掌
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