毎日の生活の中で、私は幸せしか感じないという人はおそらく一人としていないと思いますが、それはすべて我欲から生じてくるものです。「棚からぼた餅」を夢見ている場合が多いのです。
一般に「祈願」と呼ばれる言葉がありますが、願い事はあるが、そのために何か特別な努力をするでもなければ、これからもたぶんしない。けれども自分の願いだけは聞き入れてほしいと考える。まことに身勝手なものでお願いされた仏様も呆(あき)れ返るのではないでしょうか。
この世に生をうけた以上、苦しみ、悩み、そして望みといろいろお願いしたいことがあるのは事実ですし、どんな形にせよ解決しなければならない問題を抱えていることは誰しもみな同じなのです。
祈りはあくまで祈りであって、なんの裏付けもないのです。要するに、確信のない不安な時を重ねることになるのです。
私は職業上、仏様に向かい頭を垂れている人々の姿を毎日のように見ておりますが、その度に何とかしてこの人の願いをかなえてほしい、苦しみ悩みを取り除いてほしいと思うのです。
自分のために、家族のために、知人のためにと人それぞれ願い事は異なるでしょうが、皆が幸福を願い、一様に祈願成就を望んでいる様子は貴いものがあります。なかでも、自分以外の人のために拝む姿は、時として胸を打たれることがあります。
親が病気だからといって陰徳を積む人、子供が非行に走ったからといって日参をする人など、誠に頭のさがる思いです。
しかし、世の中のことはそれほど単純に動くものではありません。「困ったことが起きた。少しでも上を望みたい。だから仏様に頼んで良い結果を出してもらおう」と思う気持ちもわからなくはないのですが、この世には「因果律」という自然の法則のようなものが存在し、これに逆らう結果は絶対に得られないのです。
誰にだって一度や二度は真剣に祈り、仏にすがりつきたいと思ったことがあるはずですが、みなさんの場合はどうだったか、よく思い出して下さい。
確かに、一部の人は満足出来る結果に終わったかもしれません。しかし、これからも今まで同様、よい結果とは限りませんし、大半の人々は多かれ少なかれ、「こんなものかな」と諦(あきら)め半分で我慢をしてきたはずです。
仮にそれが生死にかかわるような重大事であったとしても、やはり同じことが言えるのです。結局、私たちの運命は自らが行ってきた行為によってのみ決められるのであって、それ以外に結果を左右する要素は何も無く、毎日悪行を積み重ねている者が幸福を願うことは、種も蒔かずに収穫しようとするようなものなのです。
これを「因果律」といって、原因があるから結果が生じると考えるものであり、世の中はすべてこの道理に従って動いているにもかかわらず、それに気付くことなくまた気付こうともせず「こんなはずではないのに、どうして私だけがこんな目に会わなければ」と嘆いているのです。
「自分の知っていることは、さながら大海原を前にした浜の砂の一粒にすぎない」というニュートンの言葉ではありませんが、本来私たちは世の中に対して全くと言っていいほど無知であるのに、都合の悪いことはすべて認めようとしない、目に見えないことは全て否定しようとする一種の習慣が邪魔をして、無知であることを悟らず、仏を信じずに自らの手で不幸を招きよせているのです。
仏の教えとは、私たちの欲望を満足させてくれたり、奇跡を起こしてくれるもののように思われがちですが、それらはすべて私たちの側に起因するのであって、受け身で与えられるものは決して何もないのです。
また、一時的には欲望を満たしてくれたり、奇跡を起こしてくれたとしても、それが究極的な解決法になるとはいえません。
その証拠に、延命を願いつづけいまだかって命を落としたことのない人は一人もいないのです。
法然上人の言葉に、「祈るによりて 病も止み 命も延ぶる事あらば 誰か一人として 病み死ぬる人あらん」 とありますが、祈ることによってすべてが解決するならば、この娑婆世界は極楽となり、まことに有り難いのですが、現実には、どんな祈りも通じるという訳ではないのです。
つまり、信仰とは願い事をかなえてもらうためにするものではなく、私たち自身が毎日の生活のなかで、苦しみを受けないようにする行為と心を教えており、幸福に至るまでの原因となる種蒔きを勧めてもらうものなのです。
お経のなかに、
如来は ただ道を教ゆるものなり
と書き示される通り、仏(如来)は幸福になるための方法を教えるだけであって、仏みずからが人間の願いをかなえるという神様のような立場はとってはいないのです。
また、釈尊(仏)は臨終を前に、
私の肉体は ここに滅びても
私の教えは 永遠に生きている
だから 私の肉体を見る者が
私を見るのではなく
私の教えを知る(実行する)者こそ
私を 見るのである
と語っています。仏とは、そうした存在なのです。そして、私たちが今信仰をするということは、祈ることではなく、仏の残した教えを信じて疑わず、実践していくことであり、その結果として苦しみがなくなって幸福が訪れるのです。
ところで目指す幸せとは何なのでしょうか。『幸』の元々の意味は、執の丸の取れたものです。丸は人が膝ま付いた姿を表しています。幸は手かせ足かせであり、死刑執行を待つ罪人を意味しています。
手かせ足かせを外されて刑の執行を免れた状態が幸であります。よって幸は難を免れた喜び、与えられた喜びであって与える喜びの意味合いが薄い。棚からぼた餅形式のしあわせである。
棚からぼた餅形式のしあわせを願うのなら、どうしたらそうなれるか考えた方がよい。
「しあわせ」は「仕合わせ」と書くことが出来ます。仕え合わせること、仕事である。
仕事の仕は、仕官と書くと官につかえる、主人に仕えて生活の為の報酬を頂くことと考えられる。
仕事の事は、師事と書くと師につかえる、師匠に仕えて技術を習得したり、自己を磨くことと考えられる。
よって仕事とは、人に仕えて喜びを与える事と共に、自らも収入を得て、技術の上達、魂の浄化など喜びを頂くことになるのです。
その与える喜びと頂く喜びを合わせることこそ『仕合わせ』であり、仕え合わせる生活をしていると、難を免れた幸せを頂けるものではないでしょうか。
本当は、仕える生活が出来ることこそ、幸せだから出来るのです。努力をすれば幸せに成れるのではなく、幸せだから努力が出来る。
祈って願って御利益信仰ではなくて、尽くして与えて喜びを重ねていく生活こそが本当の幸せであると気付いて下さい。
合 掌
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