「宝塔」第318号
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 危ない 傾いた生活

 人間は、ものごとの正邪、善悪を分別する智恵が必要であるが、もう一つ忘れてならないことは「節度」を知るということである。
 良いことも過ぎれば禍(わざわ)いとなる。栄養を取ることは大切だが、取り過ぎれば病気を招く。運動のやり過ぎで病を起こす人もいる。
 子供の教育でも、干渉しすぎたり、また放任しすぎたりして、子供が反抗することになる。
 どうせ人間はきれいごとではすまないからといって、信義も人情も捨てて、なりふり構わず欲望にまかせて、ついには悪事に堕ちる人もいる。権力を誇る者が、節度を失って自滅していく例は、歴史に見ても枚挙の遑(いとま)がない。
 仏教は、欲望を否定するものではない。欲望を調整すること、即ち節度を守ることを説いているのである。馬に手綱、車にブレーキ、欲望に節度が必要である。
 人生は綱渡りの如しという。綱渡りの極意は、よく平均のとれていることである。どちらか一方に傾いたならば、転落は免れないのである。
 働くことは良いことであるという観念から、日本人の勤勉はいまだ定評がある。しかし、働き過ぎるとなるといろいろな弊害が起きてくる。
 「うさぎ小屋の働き蜂」とか「蟻のように勤勉だが、利己主義的である」と外国の方から酷評されている。東南アジアの人に言わせると「あんなに、せかせかと走るように歩いているのは、どういうことか」と訝(いぶか)っている。
 わが国の経済進出は外国人にとって驚きと不安を与えていた。貿易商売も相手があって成立つことゆえ、儲け一方では行き詰まりがくることは目にみえていた。現在はその結果の現れであるとも言える。
 それよりも身近なところで、働き過ぎの弊害が現れている。過労死が問題として取り上げられてはや二十年、一向に改善される様子はない、長時間の通勤疲労、残業疲労。家庭でくつろぐ時間は僅(わず)かしかない。心のゆとりを持つ余裕などさらさらない。仕事の面からくるストレスも溜まるばかりである。
 馬車馬のように脇目もふらず働いて、過労の挙げ句、働き盛りで病に倒れる。
 普段は考えもしないでいるが、いったん病床に臥(ふ)し、あるいは死に迫られると、
 「自分はいったい何のために働いてきたのか」
 「自分の一生は、いったい何だったのか」
 と痛切な思いにかられるのである。
 「信仰は心の糧(かて)である。人生の本当の幸福を見出す道である。人間にとって正しい信仰ほど大切なものはない」。
 この呼びかけに対して「忙しくて信仰などしている暇はない」という人がいる。仕事が忙しい、商売が忙しい何かと多忙であるという。
 忙しいとは何だろうか。この字を見ると「心が亡びている」となっている。死者のことを亡者というが、これは心の亡者である。
 物だけの生活、食べるだけの生活は、動物なみの生活である。人間には貴い精神生活が天から与えられている豊かな美しい心の生活がある。それは人生にとって最も価値あるものである。その最も大切なものを忘失(ぼうしつ)しようとしている、心の亡者がふえている。
 人は皆、いつまでも生きているような気で忙しがっているが、誰にでも人生の終点は訪れる。その時どんな思いに襲われるだろう。
 「毎日、仕事仕事で忙しく働いて、順調に成功し、資産もできた。子供も一人前になった。社会人として人々にも知られ、名士とも交際した・・・」
 しかし、老年になって病を得て死に向かい始める。仕事も無く、訪れる人も無く、孤独の中にひとり病臥(びょうが)していると、
 「自分の生涯は、いったい何だったのか」
 と空しい心の飢えに襲われる。
 「いったい自分は何者なのか」
 「もうすぐ自分は無になる。自分という存在は消滅する汗を流し、涙を流し、時に笑ってきた生活は、すべて空しくなってしまう。この空虚な心は救いようがないではないか」
 と、多くの人は、その時になって、この悲嘆に襲われるのである。
 毎日、目先の欲に追われて、お金や物を追いかけていく。欲望は満足することを知らない。一つの欲が満たされると、また次の欲が起きる。欲望という名の車を脇目もふらずに疾走させて、ブレーキを忘れ、ハンドルを誤る。人生の交通事故に泣かねばならぬことになる。
 物もお金も大切だが、それだけに傾いていくと、そのほかの大切なものが見えなくなる。
 「獲物を追う漁師は山を見ず」という諺(ことわざ)のように、大切な道を見失って、人生に迷い、不安と苦悩に陥ることになる。

 中国の笑い話に、ある男が白昼に店先に飛び込んで来て、金銭箱の現金を奪い取ろうとして、店にいた数人の店員に直ちに取り押さえられた。
 店員:「バカな奴だ。俺達がいるのに、その目の前で金銭を盗もうとして・・・・。俺達の姿が見えなかったのか」
 男:「おれは数日来、お金が欲しくて、どこかにないかとうろうろ探し求めていた。この店の前を通りかかると金銭箱が目に入った。すると金銭箱だけが目について、ほかのものは何も見えなかった」
 金銭に執着して、心がそれだけに囚(とら)われてしまうと、大切な人間の精神を忘れて、貴重な人生を空しく終わってしまうことになる。

 『三人の天使』という有名な説話がある。ある男が死んで地獄へ堕ちた。
 「私は何も悪いことをしていないのに、なぜ地獄へ堕ちるのですか」
 閻魔王は言った「お前は生前、年老いて身も自由がきかず、孤独に悩んでいる人を見なかったか」
 男:「老いぼれて、よぼよぼの老人はいくらも見ました」
 閻魔王:「その時お前は何を感じたか」
 男:「別に何も感じませんでした」
 閻魔王:「お前は、老いぼれて身の自由もままならぬ老人の姿を見て、ああ哀れである。人は皆このように老いていく。我が身は今若く元気壮んであるが、やがてはこのように老いさらばえていく身である。他人事ではない。今この若く元気な時に、正しい信仰を得て、善事に励み、功徳を積んで、老いの苦しみから逃れようと思わなかったか」
 男:「そんなことは少しも考えませんでした。おれには若さがある。あんなに年老いて醜くなって、いつまで生きているつもりかと、老人をバカにしてきました」
 閻魔王:「それが、おまえが地獄へ堕ちる罪である」
 こうして、病人と死者とについても、同じような問答が繰り返されている。
 老人と病人と死人とは、この世に遣わされた三人の天使であるという。それは他人事ではなく、自分の運命を見せてくれているのである。
 老いも病も、免れることは出来ない。まして死は免れようがない。誰しもが受けねばならない。
 しかも死と病とは老少不定(ろうしょうふじょう)である。それは何時くるかわからない。今生きているからと安心できない。実は今死につつあるのである。生の上に死があるのではなく、死の上に生があるのである。この「無常(むじょう)」の事実を覚るならば、信仰の必要なことがよくわかるのである。
 人生には思いがけぬ落とし穴がいくらもある。不意の災難、交通事故、事業の失敗、夫婦の不和や離婚、子供の非行、病気の突発。金銭で解決つかない苦悩がある。これを解決していくのが仏教の信仰である。

                     合 掌

宝塔第318号(平成18年7月1日発行)