人間は最初に聞いたことを信じやすい生き物のようである。それが正しい正しくないにかかわらず、そこから自己流に考えを発展させて行くと言われています。
教えの道にもそのことについて注意しておられます。「正しき因果を発し、非信以て福を求む」と説かれています。この意味は、「自分の偏(かたよ)った心で勝手に信仰して、福を求めるから、災いを生ずる」のだと言うことで、たしかに人間の生活を振り返ってみると、うなずける点が多い。
仏説にこんな話がある。
六人の目の不自由な人達が釈尊の前へ出て、「私たちは象と言う動物を知りません。大きいとは聞いていますが、どのような動物なのでしょうか」と申し出たので、さっそく釈尊は象を引いてこさせ、「お前達の前にいるのが象だよ、よく触ってごらん」と言われた。
六人の者達はおそるおそる前へ出て、一人が足に触って言った。
「わあ、象は大きな樹のようなものだ」
二人目は鼻に触った。
「馬鹿な、象はロープのようなものさ」
三人目は尻尾に触って、
「なんだって、象は縄(なわ)のようなものだよ」
「違う違う、象は箕(み)のようなものだよ」
この四人目の人は象の耳に触ったので、お百姓の使う農具だと思ったのです。
五人目は象の腹に触って、
「ひゃあ、大きいな。象は壁のようだ」と驚いた。
最後の六人目は象の牙にさわって、「君達は何を言うのだ。みんな間違っているよ。象は槍のようなものだよ」と叫んだという。
このように人間は思い思いに、縁にふれたものによって勝手に思いの地図を作ると言われている。一部を知って、またある一面を見てそれが全てであると決め込む愚かさは慎まねばならない。
「手を打てば鯉が集まる鳥が立つ下女が茶をくむ猿沢の池」と言う古い歌もあるように、ふれる縁によってものの見方、考え方が違って来るのだから、常に正しく見て、正しく考え、正しく行う事を心しなければ、何時の間にか、気づかぬうちに罪を重ねている事にもなりかねない。それもこれもすべてが自分の立場からだけ事を考え、事を見るばかりで、相手の立場、相手の気持ちになって考えたり、見たりする心が欠けているからではないだろうか。
世界の三大偉人と言われた中国の孔子が、ある日、昼食時間をはるかに過ぎた頃、空腹をかかえて帰宅した。さっそく弟子に食事の支度をするように言いつけた。ところが待てども食事が出て来ない。しびれを切らして炊事場を覗きに行くと、弟子が鍋に顔を近づけて、さかんに手を動かしている後ろ姿が見えた。孔子は弟子が自分に運んで来る前に食事のつまみ食いをしている所を見て悲しんだ。
やがて、雑炊の鉄鍋を運んできた弟子が言った。
「お師匠さま、申し訳ありません。もうそろそろ煮えた頃かと鍋のフタを取りましたところ、湯気の勢いで天上のススが鍋の中に落ちましたので、それを取っていて遅くなりました」
許しを乞う弟子の言葉を聞いた孔子は、空腹な自分の立場から弟子を見た愚かさを恥じたと言う。
孔子ほどの人でも、このように一方的に事を見たときは失敗するのだから、我々はよくよく注意しなければならないことである。
水は人間の生活に欠かすことの出来ない絶対必要なものであって、仏法ではこれを浄行菩薩と言っている。
ある時、インドのヒンズー教の最高位の僧が、こんな事を言われた。
「水は、神が水に姿を変えて流れている。だからどこを流れ、どんなによごれていても、神だ」
これであのガンジス河の沐浴の意味がわかる。
その水にも色々な性質がある。それをよく確かめないままに先走った一部の考えが、後世に大きな災いを残している。
秋田県にある田沢湖に、近くにある玉川の水を引き入れ水力発電に利用しようとした。昔はこの田沢湖はマス、うなぎ、イワナなど無数の魚類の宝庫だったと言われている。周辺に住む住民はこれによって潤っていた。
ところが玉川の水を引き入れる工事も終わり、水が流れ込むようになった田沢湖は年々魚類が住まなくなった。
その原因は、世界一酸性の強い(四百数十メートルの湖底まで)魚の住めない湖になったからである。
現在その酸を中和するため、数十億の費用を費やし、数十年かけて作業が行われている。
一部の人間のうかつさによって施工された間違いは、個人的にも社会的にもその結果は不幸である。
オゾンを破壊すると言われているフロンガスの製造使用も人類に、いや地球全体に及ぶ問題でもあることを心しなければならない。
仏法では、「水を餓鬼が見れば火に見える、凡夫が見れば只の水、菩薩が見れば甘露に見える」と説かれているのは、何事もそれを見る者の心の貧富によって相違することの現れであって、心の貧しい人は恵まれた中にいても不足の面を見て生きている。自分自身の考えの狭さが自分を不幸にしている、また不幸にして行く事に全然気づいていない。周囲の問題に打ち勝つ忍耐力と実行力がないからである。心の豊かな人は環境に支配されず、喜びを見出して知足の生活をしている。この差が運命を左右に開いて行く結果になっている。
書道の手本に「孤掌難鳴」(孤掌鳴らし難し)とあるこの意味は、家庭でも社会でも、ひとり役者では成り立たない、よい女房役が必要だと言う意味だそうで、生きて行く者すべて心寄せ合う相手が必要なようだ。
「汝もし、思慮深く聡明誠実なる人を友に得ばすべての危難に打克ちて喜び深く共に往くべし。事ある時に友あるは幸いなり」とも説かれている。
人の一生で最も大切にせねばならぬものは機縁であると言われる。これが現代の出会いである。
人智では計り知れない無限に等しい「時の流れ」の中で人と人とが同時代に生まれ合わせることすら大きな不思議である。だから人間関係の縁(出会い)を正しく見定めなければならない。
またここで中国の孔子さんに出ていただくことにしよう。孔子は男女の別なく、生活に対する相談相手、女房役を選ぶことについて、「益者三友、損者三友」と言っている。
益者三友とは縁に結ばれてプラスになる人のこと。
○剛直な人−性格がしっかりしていて迷いがなく素直
○誠実な人−何をするにも真心を込めてする人
○博識な人−深く広く物事を知っている人
1.師として教えを乞う人
2.なんでも相談出来る人
3.対話して何かを得れる人
4.互いに励まし助け合える人
損者三友とは縁に結ばれてマイナスになる人のこと。
○体裁ぶった人
○人ざわりだけよい人
○口先だけの人
1.破滅して行く人は悪い仲間をもっている
2.物事にケジメのない者は避けた方がよい
3.責任を転嫁する人
4.自分は正しいと人を責める人
5.自分だけいい子になる人
仏法はよく聞いてよく考えて正しく行えと説く。
合掌
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