「依草附木(えそうふぼく)」といって草についたり、木についたりして少しも主体性のない、その場かぎりで、自分が何をすべきかが分かっていない。実に悲しい時代であるという声が多い。
結局は自分を甘やかしているからだという。自分を問い詰め、鍛えておれば内側にしっかりしたものが出来てくる。これらはすべて心の問題であって、「心を練る」努力が必要だという。確かにそうだとうなずける。よく耳にする言葉に「自由を妨げられる、拘束されるからいやだ、親がないから、親がどうだから、何がどうしたから面白くない。だから俺は不幸だ」と並べたてるが、本人の自由を拘束したり、不幸にしているのは、自分自身の考えの狭さにあることに全然気づいていない。気づく前に押し流されて、文字通り依草附木になっているのだろう。
ますます複雑化する社会、すさまじい勢いで進歩して行く科学。かって湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞されたとき、「科学は人類に真の幸福をもたらすものか、首を傾げざるを得ない」と言われた言葉の意味が分かってきたような気がする。その科学によって発展して行く目が廻るほど激しい世相の動きに振り回されて、精神的なバランスを失い、心がくたくたに引き裂かれて留まるところを知らない状態に来ているからである。また、これらの人達の共通点は、忍耐力、実行力に欠けていることである。「花は紅、柳は緑」と言われているように、道元禅師は「眼横鼻直(げんのうびちょく)」と言われた。眼は横に、鼻は縦についている。「柱は縦に、敷居は横に」どれも当たり前のことだ。また書道の手本に「烏黒鷺白(うこくろはく)」とある。烏(からす)は黒く、鷺(さぎ)は白いと言うのも当たり前のことである。だがその当たり前のことが、当たり前に見えず、出来ないところに現代の世相の乱れの原因があるように思えてならない。
自然の状態、当たり前のことが世の中で一番難しいと
言われていることもまた事実である。
ある団体のトップに立っている人の息子が事故を起こして相手を入院させた。入院された方もまた多くの人々を指導される立場にある人だった。知らせを受けた友人が見舞いに行かれたときの話である。
病室に入って行くと、見舞いの礼を言われ、「仏様にしかられました」とにこやかに微笑まれたと言う。美しい姿である。
見舞いを終わって廊下に出た友人に、付添いでおられた奥さんが言われた。加害者である青年は全然顔を出さ
ず、父親がきて、三十分ほどいるあいだ、ただの一言も見舞いの言葉は無く、ただただ自分の努力によって出世成功した、いわゆるおれは徳があると言う意味の自慢話で帰って行ったという。
当たり前のことを忘れた、心の貧しさをさらけ出した姿でる。「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」と言われているように、その人の人となりを誉めるのは大衆であって自分ではない。自分で自分を誉めて自慢しているうちは、自慢でミソをつけただけの人でしかない。
自分を知らないと言うことは不幸なことである。人は人格の向上のためにも健康のためにも、自分をよく知って、当たり前のことが出来るようになりたいものである。
こんな言葉がある。
人は常に自ら心して量を知り
食は取るべし
さすれば苦しみ少なく
老いること遅く
よく寿を保つべし
自分を知れば金銭物質に対しても、心の餓鬼にならず自己の内にひそむ善の心を引き出して行動に現し、豊か
に生きる力になる。これは対人関係にも必要である。「人々具足、個々円成(にんにんぐそく、ここえんじょう)」とは、その人その人にしかないものをいかに引き出し、フルに活かしていくかが大事である、と教えた言葉である。自分も生かし、相手のこともその人となりをよく知って生かして行くところに、互いの幸福があり、発展があり、進歩があるのではなかろうか。
自分を活かし、相手を活かしていく。すべての出来事も活かしていくことによって、生きる力が、生きる徳が与えられる。これが真の生活である。
「治世の要は、択人(たくじん)にあり」と言う。意味は人を選ぶその選び方がポイントで、適切に任用することを言う。
友人を選ぶのも、代議士などを選ぶのもよく見ないととんでもない目に遭うことは我々の択人が下手なのか。家庭にあっても家族の特長を生かすことも、成長していく子供の特長を生かすことは親として最も重要な仕事である。学問も必要だがそれだけに固執した親になると偏った性質の人間が出来上がることもよく頭においておくべきである。心が具わっていない人間ほど不幸であるから、特長を見つけ出して適切に活かしてあげたいものである。
法隆寺などに使われている何百年何千年の木は、切り
倒してから二百年くらいは、どんどん固くなっていくがそれから千年もするとまたもとの切り倒した当時の柔らかさにもどると言う。その一本の木には年輪があり、その年輪は、南に面した方が広く、北に面した方が狭いと言われる。したがって家を建てる場合、年輪の広い方の材木は日当たりの良い南側に使い、年輪の狭い材木はあまり日当たりの良くない所に使うようにすると家は長持ちするところから、これを適材適所と言うと法隆寺の棟梁西岡常一さんが言っておられる。
なんでも知っておくことである。知るは千年の宝、習うは万年の宝と言うように、知ってそれを習い身につけることは人間の生活にもっとも欠かすことの出来ないことである。
「良きことは真似にもせよや世の人よ、悪しき事等に走る心で」と言うへんな歌を作ったことがあるが、昔から今日に至るまでの良いことは大いに真似ることだ。真似(まね)ることは、真(まこと)を似(に)せることである。真を似せるには真の存在するものを手本とし、己を空にして、そのものに成りきることだと言う。「己を無にして臨めば真によって己の性〔魂〕が啓発されるのである」と言われている。真似るためには練磨することだ。いつでも、どこでも、何にでも応用できるように習練研磨することである。練とは糸を煮て、ねって柔らかにする意味であり、磨とはみがくことだから。これは古来から行われているように、良い手本を真似ることである。
仏教はもちろん、習い事のすべてが真似で練って磨いて、そこからまた新しいものが生まれて来るのである。
どんな世界、例えばピアノ、バイオリン、芸術、スポーツ、どの世界でも一流の人ほど何百倍と練磨していることは現代でも事実である。その一つにこんな話がある。
書道の心ある人は誰でも手本を通して知っているであろう、中国の王羲之(おうぎし)の曰く。
「自分の書は、鐘しょう(しょうしょう)や張芝(ちょうし)に比べると、鐘しょうとはいい勝負か少し勝っているかもしれないが、しかし張芝の草書にはかなわない。張芝の練習ぶりは、いつも池の水が真っ黒になるくらいにやっているからだ」
これは張芝が練習に使用した筆を洗うに必要な水の量
を言ったことだと思っていたが、そうではなく、使用した墨の量を言ったようである。いずれにしても、王羲之にしてこの言葉があることは教えられるものが多い。
能楽に「むささびの五能」と言うのがあるそうだ。木に登って猿に及ばず、空を飛んで鳥に及ばず、水に泳いで魚に及ばず、走っては犬に及ばず、土に潜ってはもぐらに及ばず、と言う。これはいかに多くの芸が出来ても一芸に秀(ひい)でなければいけないと言う意味だと言う。
我々もこの時代に感謝が努力をたすけ、報恩の行が徳
を育てる真の仏道を修得して心を磨いていきたいものです。
合 掌
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