「宝塔」第331号
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自分と他人と社会と

 世の中には善い人もあり、悪い人もあり、自分勝手な人もありますが、また親切な人もあります。実に種々様々で、いったい人間とは何だろうかと思うことがあります。
 「この世には不思議なものが多いが、人間ほど不思議なものはない」
  と言った哲学者もいます。同じ人でも、時には美しく、時には醜く、時には優しく、時には邪険なこともあります。分かったようで、分からないのが人間です。「いったい人間とは何だろうか」と昔から多くの人が考えてきました。滝沢馬琴はズバリ、「人間とは欲に手足のついたもの」 と言っています。
 人は死ぬまで、欲と道連れの生活をしているようです。財欲、地位欲、名誉欲、食欲、性欲等を中心にいろいろな欲望を起こしています。しかし、これらの欲望はなかなか満足が得られません。欲望に限度はありませんが物の方には限度があるからです。少ない数の物を大勢が取り合うことになります。富める者は少なく、貧しい者の多いのが世の常です。権力や地位を得る者はごく少数です。
 ある人が佐久間象山に尋ねました。
 「金持ちになる法があったら教えて下さい」
 象山が答えて言いました。
 「片足をあげて小便をするようになればよい」
 「それでは犬ではありませんか」
 「その通り、およそ人情を心得ている間は、金持ちなどにはなれない」
 ずいぶん極端のようですが、欲の一点張りでいく人は義理人情などを忘れてしまいがちです。倫理観など平気で捨ててしまいます。我が国も他国からエコノミック・アニマルなどと非難されていることを、よくよく反省すべきではないでしょうか。
 欲望の為には不正不義を厭(いと)わず、隙(すき)を伺い、他を欺(さざむ)き争い傷つけ、相手を倒そうとします。ホッブスは、「人間は、人間にとって狼である」と言いました。それは弱肉強食の世界です。武力や権力や金権が人々を抑圧しているようでは、良い社会とはいえません。
 多くの人々が路頭に迷い、或いは生きる喜びを失い、或いは不満と不安に悩む。自分は何のために生きているのか行き先不明で悩んでいる人も多いのです。
 キリスト教の聖書では「人間は迷える小羊である」と言っています。この世に生まれてきたけれど、思うようになることはなく、この先どうなるかわからない。人生の幸福とは何だろうかと、迷いの日々を送っている人もいます。
 明日への不安を抱きながら、ただ何となくその日暮らしに追われて、虚しく人生を送っている人もいます。それではせっかく人として生まれた甲斐はありません。
 人間は物質的欲望だけで生きているわけではありません。もっと大切な精神的欲求をもっています。それは自己の充実、生き甲斐のある生き方を求めることです。人生の真の幸福を探り当てることです。
 それでパスカルは、「人間は考える葦である」と言いました。思考する力を人間は持っています。善悪を知り、正邪を知り、真実を求める智恵を持っています。この智恵は、一方では現代の高度な技術文明の社会を造りました。また一方では技術文明を調整して人間生活を豊かにする精神文明を造りました。今日求められているのは、科学を人間の幸福に結びつけていく正しい宗教の発展ではないでしょうか。
 人間は単なる自然的存在ではなく、精神的存在であり社会的存在でもあります。人は一人で生きるものではなく、多くの人々と連帯の中で生きていきます。
 我が国では「ひと」と言う言葉の中に三様の意味が含まれています。例えば「ひとをバカにするな」と言った時の「ひと」は「自分」のことを指しています。「ひとの物を黙って取ってはいけない」と言う場合の「ひと」は「他人」を意味しています。「そんなことをすれば、ひとに笑われる」と言った時の「ひと」は「世間一般」を意味しています。
 日本語の「ひと」は人の実体をよく表しています。人とは自分であり、他人であり、社会であります。自分というものは、他の人と社会と切り離して存在するものではないのです。
 「おれは自分の腕一本でここまできた。ひとの世話になんかなっていない」と言う人は、三分の一の人で、他の人や社会との縁起関係を知らない無知な人です。
 人間はそれぞれ独自の生活をしながら、お互いに助け合って社会生活をして、共に生きているものです。この世という運命共同体の中に生きているのです。互いに良き兄弟であり、良き友であらねばなりません。
 釈尊はお生まれになった時、七歩歩あゆまれたという言い伝えがあります。これは六道という迷いの世界を越えて、四聖道という悟りの世界に進まれることを表現したものと言われています。
 六道というのは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの境界で、これらは迷いの世界で、したがって苦の世界です。
 四聖道は、声聞、縁覚、菩薩、仏の四つの境界で、悟りの世界、即ち安楽の世界です。以上合わせて十の世界は、どの人の心にも平等に具わっています。もし人が怒りの心を発したときは、即ち地獄界です。病気や事故、災難など種々の苦しみの因となります。
 もし人が貪欲の心に囚われたときは餓鬼界です。もの惜しみをしたり、貪りの欲をおこしたりしますと、ついには徳を失って、大損をしたり、失敗をしたりします。
 愚痴ばかり言っている人は畜生界です。足ることを知らないで不足不満の日暮らしです。心に悟りがないために希望も喜びもない人生になってしまいます。
 欲で争いあっているのが修羅界です。互いに相手を押さえつけて自分が優位に立とうとします。時には共倒れになることもあります。
 平凡で、穏やかな状態は人間界ですが、いつ波風が吹いて、心が騒ぐか分かりません。善悪の岐路に立っているようなものです。
 天上界は、良いことがあって喜びでいっぱいになっている状態ですが、その喜びは長く続きません。
 人はみなそれぞれの心遣いによって、さまざまの境界を造りあげます。中には悪縁にふれて三悪道を造る人もあり、良き縁にあって幸福になる人もあります。常に仏を信じていらっしゃるお方は、この良き縁にあうことが出来るのであります。
 釈尊はお悟りを開かれて、私どものような凡夫にも仏と同一の性質があることを教示されました。欲に手足のついた人間ですが、それ以上に貴い仏の心をもっているのです。しかし、この心は仏を信じていかなければ悟れません。仏を信ずるとき、この世は仏の国土であり、人々はみな仏の子であり、互いに助け合い、喜び合い、学び合い、拝み合っていくことが出来るのです。即ち、「人間とは、人間にとって仏である」のです。

 合掌

宝塔第331号(平成19年8月1日発行)