「宝塔」第332号
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信は本なり

 この世には楽しいこともあれば、苦しいこともあります。私どもはとかく楽ばかりを求め、苦を避けようとしますが、思うようにはいきません。
 経典の比喩の中に、こんな話があります。
 ある家へ福の神が訪ねてきました。主人は喜んで丁寧に奥座敷に迎え入れました。程無くみすぼらしい貧乏神が訪ねてきました。主人が断ると、貧乏神は、「私と福の神とは姉妹です。いつも一緒にいることになっています。私を追い出せば、福の神も共に出ていきます」と言いました。
 人生は善いことづくめではありません。また悪いことづくめでもありません。「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」と申します。中国の諺に「人間万事塞翁(さいおう)が馬」とあります。
 昔、中国の辺境の村に老農夫と息子が住んでいました。ある日、飼っていた馬が何処かへ逃げ去ってしまいました。大変な損失で、近所の人は同情しました。ところが数日過ぎてその馬が戻って来ました。しかも素晴らしい立派な馬を連れてきたのです。大変なもうけです。人々はうらやみました。
 息子が新しい馬を馴らそうと乗り回しましたが、振り落とされて足の骨を折り、足が不自由になってしまいました。人々は「お気の毒に」と哀れみました。
 数年経って隣国の兵隊が攻めてきました。村中の若者はみな召集され、多くの者が戦死しました。息子は不自由な足のおかげで召集されませんでした。人々はまたうらやましがりました。
 悪いことが善いことに変わり、善いことが悪いことに変わり、世の中のことは一様ではありません。仏さまはこれを「諸行無常」とお説きになりました。
 今の日本は世界の経済大国となっています、そして、多くの国から羨(うらや)ましがられたり、妬(ねた)まれたり、あるいは非難もされたりしています。しかし国が豊かになったといっても、一般の人々はさほど豊かとはいえません。土地も家もない人がいっぱいいます。働き過ぎて早死にする人もいます。「国豊かなれど民貧し」といった傾向が見られます。しかも今の安定がいつまで続くという保証は誰も持ってはいません。
 企業の利益第一主義や、それに追随する政治の金権腐敗などが指摘され続けていますが、いちばん恐ろしいのは人心の腐敗です。倫理観のない社会は荒廃していきます。人が人を信じられなくなるほど、危険なことはありません。
 「二十一世紀を迎えるころ、科学や技術は進歩しているでしょうが、どんな世の中になると思いますか」。
 このアンケートに対して四十七パーセントの若者は 「今より不愉快なことや、いやな事がふえる」と悲観的な見方をしています。
 生活は便利になっても、目先の欲望だけ膨れ上がって自然や人間を痛めつける面が増えています。
 空気や水が汚染されたり、森林が伐採されたり、温暖化、オゾン層の破壊、核の脅威、自動車事故の増大等、環境の悪化が深刻化しています。
 富の偏在(へんざい)が進み、人の心は益々貧しくなります。思いやりとか、愛情とか、清潔さとか、美しい人間の感情が鈍麻(どんま)していきます。心の通い合いのない世の中では人は幸福を感ずることは難しいでしょう。
 昔から「情けは人のためならず」という格言があります。人の苦しみや悲しみを思いやって、少しでも人の為に尽くしてあげれば、それは自分の善根となって廻り廻って結局は自分の為になる。だから情け深く人に親切にしてあげなさい。という意味でありましょう。
 ところが今の解釈の中には「人に情けをかけてはいけい。情けをかけることは、相手の為にならない」という子供もいるようです。いったい今の教育はどうなっているのでしょうか。未だに日本人は金儲けに夢中です。「人間万事、金の世の中」という風潮です。お金は大切ですが、持つ人の心によって仇ともなります。
 以前、土地を売って大金を得た農家で、その金の使い道で親子の意見が食い違い、喧嘩口論のあげく、殺傷沙汰を起こしたという事件もありました。
 「世の中は地獄の沙汰も金次第 とはいえ金で行けぬ極楽」という古歌があります。金や物では解決のつかないことがいっぱいあります。
 お金があっても夫婦仲が悪く、日々不愉快な暮らしをしている人もいます。我が子に背かれて嘆いている親もいます。病や災難にあう人もいます。老いて孤独に悩む人もいます。いくらこの世に執着しても、死はどんどん近づいてきます。
 人生は、人の真心や、愛情の触れ合いの中に、本当の幸福があります。仏の真実の教えによって、心安らかな日々を送ることができます。
 いま多くの人々は、物の豊かさは幸福の一部分にすぎないことに気づいています。大切な心の豊かさを取り戻さなければならないと気づいているのです。しかし、その方法が見つからず彷徨(さまよ)っているのが現実ではないでしょうか。
 「国が存立していくための不可欠の条件は何ですか」という弟子の質問に対して、孔子は「食と兵と信である」と答えました。即ち、経済力と国を防衛する力と信頼関係の三つが必要であるというのです。
 「この三つのうち、どうしても欠くことの出来ない根本のものは何ですか」と弟子は更に質問しました。孔子は、
 「それは信である」と答えました。
 信なくしては国の和合は成り立ちません。人が互いに信じ合うことがなくては社会は成り立ちません。家庭でも、社会でも、人の結びあいはみな信が本であります。信とは、仏を信ずる心、真理を信ずる心です。これを「まこと」と言います。「まこと」とは、人はみな互いに相依(よ)り、相助け合って共存していることです。
 例えば商売のことを、昔は「やりとり」と言いました。相手の欲する物を与えることによって、自分も利益を得ます。相手を利することが自分の利になる。これが「やりとり」です。この「やりとり」を公正に行っていくのが、まことの法、信と和の世界であります。
 江戸時代、享保のころ、紀之国屋文左ヱ門は、みかん船で巨万の富を得ましたが、この人は金儲け第一主義で、江戸に大火事がおきると、すぐ木曽に走って材木を買い占め、紀州の山まで買い占め、人々の災難に乗じて膨大な金を儲けました。
 しかし、そういうやり方は天の御意にかなわず、僅かの間に破産して、その末路は裏長屋で人の居候となり、かまどの前で火を焚きつけながら死んだそうです。
 同じころ伊予の福田屋清六と言う人は、材木を積んで大阪まで来ると、折から市内で大火が起きていました。市中の材木商人が続々と船の材木を買い占めに来ましたがみな断りました。「自分一人で儲けるつもりなのか」と一同が非難しますと、
 「いやいや、日頃から商いをさせて頂いているご恩返しに、この材木は一銭の口銭もなしにお売りしたい」
 と答えました。お蔭で材木は値上がりせず、多くの人々に喜ばれました。福田屋は末永く栄えたと言います。
 「人の喜びをもって我が徳となす」と申します。
 一人でも多くの人に喜んでもらえるような徳を積んでいきますと、それは求めずして自らの福徳となり、一生幸せに暮らすことが出来ます。功徳は一家繁栄の土台です。この土台を造らないと幸福も続きません。
 教祖曰く、
 「徳は本なり 財は末なり」
 
と。この金言を確かに守って頂きたいと思うのであります。

 合掌

宝塔第332号(平成19年9月1日発行)