今日だけは怒るな あせるな 欲張るな
常にお蔭様と感謝して 親を労り
人には親切に 行に励んで 徳をのこせ
これは我々が日常生活に取り入れて行かねばならないいや、取り入れれば必ず幸福に成れる導きの書である。“怒るな”―――これは人間が幸福で健康に生きる為には絶対必要であり、信用を得る為にも重要な事である。とにかく怒るという事を、医学的に言えば、イライラして心臓のリズムを乱してその人の一番弱い(悪いのではない)所が病気に成って行くと言われている。また怒って争えば、勝っても負けても、不幸の種を蒔き、幸福の芽をつむことに成るのだから注意すべきではないだろうか。
「叱れば役立って喜ばれ、怒れば嫌われる」とも言われている。よく耳にする言葉に、荒い大きな声で「おまえの為を思うから言っておるんだぞ。これから気を付けろ。分かったか・・・」。いやはや、これは相手の為を思っているのではなく完全に感情的に成って怒っているのである。仏説によく出ていることで、AとBとがCの事を「あいつはいいやつだが、すぐ怒るからなあ」と話すのを陰で聞いたCが飛び出して来て「俺がいつよく怒った」と言って怒ったそうである。
何故そんなによく怒るのだろう。それは「知識はあっても智慧が無いからだ」と言われる。物事をよく覚えて知っていても、事の変化に対して善意に理解する悟りの智慧が無くては、常に心穏やかに我が身を安穏なところに置いて安らかに日々を送ることは出来ないのである。
次は“あせるな”とある。特に信仰に入った方に有りがちな、利益を求めてあせることである。これは信仰をする者の当然の願いのように決めている人が多いようである。これでは「頼むばかりが信仰か」と言いたくなる確かに頼む事は悪い事ではない。頼めば宜しいのだが、頼む前にやらねばならない事があることを忘れてはならないのである。それは仏の教えられた事を日々の生活に実践することである。仏法から実践を取り去れば仏法ではないと言っても過言ではないと思う。
あせれば迷う。迷えば良き縁に結ばれておりながら宝の持ち腐れで終わってしまうか、尊い因縁の糸を自分で切り離して苦悩の道を生涯歩み続けて終わって行く。そんな人をこの眼で何人も見てきたからである。また、あせる人に限って、何事も正しく考え、歩む道を見定めて生きることも難しいことに成るからでもある。
三番目に“欲張るな”。仏法に「諸苦の諸因、貪欲これ本なり」と説かれている。欲に溺れていない人にはこの意味がよく理解できるが、欲に溺れている人に限って、それが全然分かっていない。それどころか、むしろ自分の考えが正しいと思い込んでいるのだから度し難いのである。
昨今の世の中の乱れは、この欲すなわち我欲の泥沼の中で喘いでいる姿であると言えるのではないだろうか。そう思えば思うほど、教えを広める事の責任を感じる者である。心ある方々は、日本の将来はこれでいいのだろうか、我々の子供たちや、孫たちの世代に成ったころの世の中はどう成っているだろうと心を痛めている。
「貪りは世の人並みという業の、報いの上は一人悲しき」と教えられているが、これからの時代は自分一人だけに終わらず、子孫にまで及んで行く事を忘れてはならない。時の流れに流されることほど淋しいものはない。
ある奥さんがお見えになって、「先生、情けない。私は一生懸命子供を育てて来ました。子供の為に生きてきました。なのに成長して社会人に成った子供は自分の事ばかり考えて私の事など振り向いてもくれません。どうして私はこんなに不幸なのでしょう」と声もあらわに泣かれるのである。私の答えは簡単でした。「貴方が人のことも親のことも考えようとせず、自分の事だけを考えて振り向こうとせず、子供が出来れば子供子供と子供だけに夢中になってご主人にまで妻としての努めも手抜きして来たのではありませんか。親や夫が有る身でありながら、子供本位に生きた人は、子供に裏切られて行くと言われています。貴方も子供の行為を愚痴を言って攻めるだけでなく、過去を振り向いて懺悔(さんげ)した方が問題の解決は早く来ますよ」と説法したが、世の中はどんな時代が来ても因果の道に変わりは無いと教えられているが、有り難いことに因果とは悪い事ばかりが報いて来るのではなく、良い事も善行の報いとして因果は現れて来ることである。
そこで“常にお蔭様と感謝して”“親を労り”とある様に、どんな親でも親である。よく、成長した息子さんや娘さんが、”あんな親なんて””あんな親が”と馬鹿にしたことを言うが、あんな親でも貴方を生んで育てた事実の徳を越える事は出来ない。貴方が親に対する考えを良い方へ変えなければ運命も成長しないだろうし、いつかは生まれて来るであろう貴方の子供が貴方の様(さま)を見て”あんな親”と言って馬鹿にするように成るだろう。この思いは大なり小なり事は変われど、代々引き継がれていくのだから、親にだけは悪い思いを持たず、労りの心を持つことである。
次が“人には親切に”とある。たしかに我々は同じ世代に生きている人々のお蔭で生活に必要な物品を与えられているのだから、それに対する感謝の心の表現として親切の心を施して共存共栄の人間としての価値がそこに有るのではなかろうか。人に親切に生きる事の出来ない人は調子の良い時は良かろうが、一つ間違うと誰も自分の為に手を差し延べてくれなくて、哀れに落ちていくのを止めることは出来ないのだから、人の為に役立って親切に生きる為にも、自分に与えられた行に励むことである。仕事を通して人の為、社会の為に役立って生きる目的は、金の為だけに生きるのではなく、将来の自分の運命を確立させるためにも「金徳に終わらず、人徳で終われ」の言葉通り、徳をのこすことであると最後に強い言葉で“徳をのこせ”と結ばれている。これは教えから取り上げた身近な指針である。
もう一度言ってみよう
今日だけは怒るな あせる 欲張るな
常にお蔭様と感謝して 親を労り
人には親切に 行に励んで 徳をのこせ
この言葉を毎日何度も声に出して繰り返していると習慣は性格に変わると言われる様に、いつしか自分の身に付いて、人間性を豊に育て、運命的にも向上発展へとつながって行くのだから、しっかり口にして言葉を行為に現してほしいものである。何故ならば、身に付ける為には行が絶対だからである。
親としての生きざまの大切であることを経験された方に、こんな話があります。
この人は少年の頃から常に母親から口癖のように言われた言葉があった。それは「お年寄りを大切に、人には親切にするんだよ」だった。この言葉通り少年はこれを実生活に取り入れて自分のものとし、現在では人の上に立つ心豊かな立派な社会人として、また円満な家庭人としても実に素晴らしい人生を歩んでおられる。 過日、私はこの人と久しぶりにお逢いして愉快に時を過ごし、別れた後もこの人の豊かな人間味がいつまでも残っていた事を覚えている。
良い縁に恵まれて徳を残して下さい。
合掌
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