「神仏を崇(とうと)びて神仏を頼らず」
江戸時代初期の二刀流剣士、宮本武蔵の言葉ですが、私たちはこれとは全く逆の事をしているように思えてなりません。
普段は仏壇にも神棚にも手を合わせることなく、墓参りもしない。それでいて、やれ病気だの、受験だのという機会を得ると慌てて神社・仏閣にお参りをする。祈願をし、おみくじを引いてその結果に一喜一憂する。
御利益にあずかりたい時だけ神仏を崇拝して「何とかお助け下さい」と救いを求める。そのくせ心の中には神も仏も持ち得ていない、本当に虫のいい人が非常に多いように私の目には映ります。
釈尊は、我々人間すべての心の中に仏が存在すると言われましたが、心の中の仏様を観ようとせず、苦しみ多く喜び薄き毎日を送る人、我欲に負け満足できずに愚痴を言う人、自分自身に手足のあることを忘れ、他人の手足を借りることばかりを考えている人、誠に残念な話ではありますが、そのような人は目の前に宝が有りながらその事に気付かず、宝が欲しいと嘆いているようなものです。
自らが行い、自らが心を変えれば、それで済む事を、相手に要求し、それが当たり前のように思うのは、正しく神仏が自分の心に常住していないからに外ありません。
いや、仏様も住み着いてくれないし、住み着いてもらう環境を整えていないのです。
きれいな川には魚が住むのと同じで、仏様もまた、きれいな心をすみかとして求めるはずです。汚れた部屋より片付いたきれいな部屋の方が居心地が良いのは誰もが同じでしょう。
自分だけ得をしようと考える人、人の気持ちを知ろうとしない人、相手の身になってその人の為にと思わない人は、その人自身の心が汚れていることに原因があるのです。
そして、そんな汚れた心には仏様も近寄らず、益々、淀(よど)んだ心になっていくのです。
ですから、いつ仏様が住んで下さっても良いようにと毎日のように心をきれいに保つ事が大切なのです。
確かに、今の世の中を眺めてみると我欲の為に、親が子を、子が親を殺し合うといった出来事が暇が無い程起こっています。絶対に行われてはならない行為が、人間の顔をかぶった野獣のような無法者によって現実の世界で行われているのは事実です。
正に現代は、「末法の世界」と呼ぶにふさわしい悪世であると言わざるを得ません。
個人と個人がいがみ合い、国と国とが戦争をするのは人間本来の姿で無いことは間違いありません。
常に自らの得を求め、その為には他人を平気で犠牲にし、他人の心を思わず、他人の苦しみを感じない、そんな人ばかりなのかも知れません。
しかし、だからと言って自分までもがその人たちの仲間入りをして我欲にうつつをぬかしてもよいという法はないのです。
むしろ、そんな人ばかりだからこそ、そんな時だからこそ、他人の苦しみを我が苦しみとし、他人の痛みを知り少しでも和らげてあげたいと思う心は、何物にも変え難い財産であり宝なのです。
しかも、そうした清らかな心を持った人ならば、いざという時にこちらからわざわざ神社仏閣に出向いて祈願するまでもなく、既に仏様はその人の心の中に住み、力を与えて下さるはずです。
その為にも悪に染まらない勇気と支えを持たなくてはなりません。その一つが法華経です。
法華経とは、白蓮華をもって自らの心とする教えであります。
白蓮華とは白い蓮の花のことで、何故蓮の花なのかと言いますと、蓮の花は次の三つの徳を備えていると言われるからです。
・淤泥不染(おでいふぜん)の徳
・種子不失(しゅしふしつ)の徳
・華果同時(けかどうじ)の徳
(以上を蓮華の三徳と呼ぶ)
「淤泥不染の徳」とは―
蓮の花は必ず汚い泥沼の中から芽を吹いて成長するにもかかわらず、その花の白さは決して汚れた泥に染まることはなく、他のすべての花の色より優れており、清らかな美しい姿、かぐわしい香り、純粋な色を伴って立派に咲くという徳のことで、周りがいくら汚れていても法華経を信じ唱えるならば、周囲の汚れに染まることなくきれいで美しい心の花となり、周りの人の目を潤し絶大なる善の感化を与えるのです。
「種子不失の徳」とは―
蓮の種子は何年経っても腐らずに生きつづけ、発芽する為の条件が満たされた時には必ず芽を出すという徳のことで、ここでいう心の中の仏、そして自らが仏と成る為の仏種(仏心あるいは如来蔵(にょらいぞう)ともいう)は、ひとたび法華経を信じ行うならば、必ずや芽を出し、きれいな花を見事に咲かせるのです。
「華果同時の徳」とは―
花が散ってから実を結ぶ他の花とは違って、蓮華の花は、開花する時期に時を同じくして実が出来ているという徳のことで、たとえ今まで悪業を積み重ねてきた人と言えども、その結果数えきれない程の大きな苦しみにさいなまれている人でも、心から改心し、法華経を信じ実行するならば、その福徳は絶大でしかも他に類をみない程の即効性を兼ね備えているのです。
前述の通り、今この世の中は正常といえるほど、安穏とした場所ではなく、むしろ異常なほど乱れた乱世と呼べるでしょう。
周囲の人は皆、身勝手で、自分の利益の為なら人殺しさえ罪悪感もなく、いとも簡単に実行してしまう恐ろしい現実の中、自分自らも安易な悪業に心を奪われてしまいそうな環境が整えられつつあります。
しかし、そんな誘惑に負けひとたび悪行に手を染めてしまえば、その結果もたらされるものは、苦難の道を歩み続けることであり、仏様の救いは遠く、善道の導かれる保障もありません。
だからこそ法華経を信じ実践することによって得られる「蓮華の三徳」、中でも淤泥不染の徳を身にまとい、心の中心となるべき仏種を大きく、長く、太く育てていきやがて美しい花と立派な実がつくよう努力することを、お勧めいたします。
災難がやって来たから神頼みするのではなく、平生(へいぜい)より神仏を崇(とうと)び、仏道精進する事によって心の中に、転ばぬ先の杖を持てるよう努力しなければならないのです。
合掌
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