「宝塔」第343号
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人として生まれてきた

 人の世は楽しいこともありますが、それにもまして苦しいことや、辛いことも多いものです。自分の願いが叶わず失意の淵に沈むこともあり、時には絶望的になることもありますが、それでも人は生きていきます。生き物にとって命ほど尊いものはありません。
 生まれてくる意志が有っても無くても、この世に生をうけた以上は、誰のものでもない自分の人生です。良きにつけ悪しきにつけ、自分が一切責任を持たねばなりません。愚痴を言って暮らすも一生、喜んで暮らすも一生です。同じ一生なら、喜んで生きる道を歩きたいものであります。
 喜んで生きる道の出発点は何かと言いますと、「与えられた命を有り難く頂戴する」と言うことです。生まれてくる人々の中身や境遇は、皆それぞれ異なっていますが、皆等しく人として生まれてきたのであります。
 恵心僧都はこう言っておられます。

 「まず三悪道を離れて、人間と生まれたることは大きな喜びなり、身は卑しくとも畜生に劣らずや。家貧しくとも餓鬼にはまさるべし。心に思うこと叶わずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。・・・このゆえに人間と生まれたることを喜ぶべし」

 不平不満や、愚痴のこぼれるとき、世の中が嫌になったと思えるとき、まず人間に生まれさせて頂いた有り難さをよく考えねばなりません。
 無数の生き物のうち、人間に生まれてくるということは「大地の土にくらべて、爪の上の土」ぐらいと言われるほどに尊いことであります。
 教祖杉山先生がお若いとき、あるお寺にお参りされてたくさん並んでいる位牌を神通力でご覧になりますと、犬や馬や魚など、いろいろな動物の姿に見えるものが多かったということであります。
 人は生前の業によっては、悪処に生をうけることになります。殺生や盗み、邪淫(じゃいん)や妄語などの悪い行い、あるいは貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)などの心づかいは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちる悪因となると言われています。
 私共も、よくよく顧みれば、こういう悪業を造ってきていると思います。哀れ畜生の身に生を受けてもしかたのないような者が、人間界に出さして頂いたのですからこれほど有り難いことはありません。これほど大きな喜びはないのです。
 これはあたかも、悪事を犯した者が刑法の判決を受けても、情状酌量されて執行猶予になったようなものであります。三悪道に堕ちるほどの罪ある者が、人間界に生まれさせて頂くのは、仏法にあって生命の実相に目覚め功徳を積む喜びをもって、自らの魂を浄化するためであります。
 「人界に三箇の幸いあり。生類萬億の中に人倫に生 まる。これ一箇の幸いなり、人倫の中においても萬の道理を知る身となる。これ第二の幸いなり。萬の道理を知る中においても、よくその深理(仏法)を知るに至る身となる。これ三箇の幸いなり」
 人間に生まれたことは第一の幸い、いろいろな物事を知ることができるのは第二の幸い。そして仏法を知ることができるのは最高の幸いであると申されています。

 『雪山(せっせん)の寒苦鳥(かんくちょう)』
 
 仏様は私共に、或いは喜びを与え、或いは悲しみを与え、或いは苦を示し、或いは楽を示し、様々の方便をもって引導していてくださるのですが、悲しいかな無知な人々は、人間に生を受けたことの尊さに気がつかず、只目先の欲や快楽にとらわれて、一生を空しく過ごしてしまうのです。
 昔、インドの雪山に寒苦鳥という鳥がいました。たいへん怠けもので、昼間は遊んだり、居眠りをして貧っていました。夜になると、一変して寒気酷(きび)しく、一晩中寒さに震えながら「夜が明けたら、温かい巣をつくろう」と泣きあかします。ところが朝日が昇って、ポカポカと温かくなってきますと、夜の寒苦を忘れて、また居眠りをして、巣をつくることを怠ってしまいます。こうして一生むなしく泣き暮らすということであります。愚かな鳥がいるものだと笑ってはおれないのです。

 「衆生亦是の如し。地獄に堕ちて炎に咽(むせ)ぶ時は、次に人間と生まれては、諸事をさしおいて、三宝を供養し、後世の菩提を助からんと願えども、たまたま人間と生まれ来るときは、名門名利の風激しく、仏道修行の灯火は消えやすし」

 と、日蓮上人は戒告されているのであります。
 とかく人間は日々の暮らしに追われて仏心を忘れ、難に会うと、慌てて仏様に手を合わせますが、苦が過ぎると、また欲の生活に逆戻りです。これでは、いつまで経っても、本当の幸福は得られません。

 『生命のもとを養う』
 
 自分の命の尊さが本当に解れば、親の恩の有り難さもよく解ります。父母を両肩に乗せて百年の間歩いても、その恩に報いることは出来ないとまで言われています。我が国では古来より盂蘭盆の行事がありますが、これも親に対する報恩行であります。
 「盂蘭盆経」によりますと、釈尊のお弟子目連尊者の母が死んで餓鬼道に堕ちました。目連尊者は自らの神通力をもって母を救おうとしましたが、どうしても救うことが出来ません。それで仏の教えをうけて、十方の聖僧に供養し、その善根功徳を回向することによって、母を餓鬼の苦から救うことが出来たということであります。
 餓鬼道というのは、食べ物も飲み物も無い飢渇(きかつ)の境界です。そこに住む餓鬼は、喉は針の孔の如く、手足は糸の如く、腹のみ膨れて太鼓の如しという有り様です。人間に生まれても、慳貪(けんどん)な所行をしたものは、餓鬼道に堕ちるとされています。
 慳貪とは欲が深くて、もの惜しみの強いことです。儲けることばかり考えて、施すことを知らない。自分のものに満足しないで、人のものまで欲しがる。いわば利己主義の我利我利亡者ということでしょうか。昔は自分のことしか考えないものを「ガキ」と呼びました。
 この餓鬼の心は、誰の心にも潜在しています。罪障のふかい人が悪縁に会いますと、この餓鬼心が活動して、貪欲の所行となって現れます。
 先頃のバブル経済では、餓鬼跳梁(ちょうりょう)したようです。今の世の中、名利ガキ、金銭ガキ、色情ガキなどがウヨウヨと横行しているようです。
 他人のことはともかく、目連尊者の母が餓鬼道に堕ちたというお話を聞きますと、凡夫である私共の父母や先祖も餓鬼道に堕ちているかも知れません。いや自分自身欲の深い心を持っていますから、放って置けば自分も餓鬼道に堕ちかねません。
 それで仏様は私共に「慈悲心」の大切なことを教えられます。慈悲心とは人々の幸せを願う心です。これは人々のご恩に生かされている人間にとって当然のことと言えましょう。まず、一番身近な父母の恩に報いることがその第一歩であります。
 お盆は亡くなった親ばかりでなく、「生き盆」といって健在な父母にも御馳走を差し上げて、その健勝を願うという行事も伝えられていることを忘れてはなりません。
 昔から「孝行をしたい時には親はなし」と言いますが仏法を信仰する者は、亡き親にも孝行が出来ます。それがお盆に表されるように追善供養の行であります。
 私共は亡き父母や先祖のご恩に感謝し、善根功徳を積んで、これを回向することを忘れてはならないと思います。それは日々の生活の中で常に仏様を礼拝(らいはい)し、仏様の教えを一心に守っていくことにあると思います。                      

                                                     合掌

宝塔第343号(平成20年8月1日発行)