法華経の前半に十方世界の仏様たちが集まり、お釈迦様に対して、
「娑婆世界には悪い者が多くいるので、ずいぶんご苦労があるでしょう」
と聞かれる部分があります。
これに対してお釈迦様が何と答えられたかと言えば、
「少病少悩」である。
文字のまま意を解せば、”病も少なく悩みも少ない”であり、苦労もなければ心配もない、決して大変な所ではないと言っておられるのです。
苦労も心配もないというのは、元々覚悟してみえたからでしょう。
もし我々人間でも覚悟さえしておれば、どんな事が起きようとも、さほど驚きはしないはずである。
今日は雨が降りそうだから会社へ学校へ買い物へと傘を持って出れば、帰り際に雨が降りだしても、それほど驚きもせず困りもしない。
ところが、出掛ける時に日本晴れ、空のどこをしぼっても水一滴出そうになく、天気予報も、晴れ時々曇り、こんな調子で今日は雨の心配なしと、心に決め込み出掛けたところ帰る直前に降り出す雨。
雨も降らない風も吹きそうにないと思っている時に、不意に降られたり、大風が出たりすると困ったり驚いたりするもの。
また、その逆の経験もあります。
今日は雨が降りそうだから、用心して傘を持って出たところ雨が降るどころか、快晴になって荷物はかさばり重い目をして損をしたと思うような事。
以前、大きな台風がやって来る、我が家を直撃しそうだとテレビで聞いて、これはもたもたしてはおれない、家が飛ばされては大変だ、窓ガラスが割れては困ると、雨の中、家の周りをトンカチ片手に板を打ちつけ、やっとの思いで準備完了と家の中に入り、
”さあ、いつでも来い”
と言わんばかりに台風を待ち構えていたら、台風の目が上空を通過したらしく、雨も風も止んで拍子抜けしたことがありました。
しかし、台風がいくら接近しても心が不安にならず、やるだけの事はやった、後は野となれ山となれ、我が家が飛べば近所の家も同じなんだと、一種の開き直った気分でその一時を過ごせた事を考えれば、打ちつけた釘を抜き、板をはずす作業もそれほど面倒ではありませんでした。「備えあれば憂いなし」でしょうか。つまり、お釈迦様も”備えあれば”の方であったのです。
この娑婆世界は苦悩の満ちた所で、そこに生きる人間達は苦しみの真っ只中にいるのだ。その人間を相手に教え導くのは、なかなか骨の折れる仕事だ。そして、そこから救い出すのは容易なことではないと最初からお考えになったのです。
だからこそ、どんなに骨が折れようとも、どんなに迫害されても驚いたり悩んだりせず、十方世界の諸仏の問いに対しても、
「少病少悩にして疲労ある事なし」
と仰せられたのでしょう。
それに比べて我々は、先の先に何があるか分からない万事に見通しがつかない。
だから、少しばかりやってうまく行かないと骨が折れるだの、困っただのと不平を言いだす。挙げ句の果てに「もう駄目だ」とさじを投げてしまう。
その元には、「苦労などしたくない、出来れば楽して幸せになりたい」等という気持ちがあるからです。
初めから、この世に苦労はつきもの、苦労して掴んだ幸せが本当の幸福、その幸福の中にもまた、苦労が待ち受けているくらいに思って毎日を送るならば、何も驚くほどのことはやっては来ないのです。
それを苦より楽、損より得することばかりを考えているから、最初の覚悟が出来ておらず、「いざ」という時になって、この世には神も仏もないと恨み節の一つも言わなければならないハメになるのです。
お釈迦様は、この世が楽しい所などと言ってはおられません。その反対に、罪深き私たちが生活するには打って付けの苦悩の充満する場所と表現されています。
だから、私たちもそこの所をよく理解して、今あるものは必ずいつか無くなる、お金も財産も地位も名誉も、この身すらも滅してしまう時が来る。このことを覚悟しそれを元にして生み出されるものこそ、苦悩を伴わないまさしく「少病少悩」と言えるのです。
この身があれば あったで良し
この身が無ければ 無しで良し
お金があれば あったで良し
お金が無ければ 無しで良し
人に尊敬されれば されたで良し
人に悪口を言われれば 言われたで良し
この世でどんな事が起ころうとも不思議はないのですすべてが必然、縁によって起こること、自分以外に責める者はありません。だからこそ、この身のあるうちに精進せねばならないのです。
悪縁を切り、良縁を結ぶよう努力すること、これが我々にとって大切な事なのです。
その為には喜びと感謝が第一。
この世は苦である。しかし、それを楽に変える方法が有るとすれば、喜びと感謝する心しかありません。
この世で生活する間、食べ物であれ命であれ、与えられて始めて生きていけるのです。そのことを感謝せねばなりません。
例えば、ここに綺麗な花が咲いていて、それを見て綺麗だと思うだけでは駄目なのです。
その花が何故きれいに見えるのかと言えば、太陽の光があるからです。もし、この光が無かったならば、どうでしょうか。暗闇に、いくら美しい花が咲いていても見えはしない。
だから、この花が美しいと思う時にもう一歩踏み込んで考えてみて、この花を美しく見せてくれる太陽の光が有り難いということに思い至らなければならないのです。
ちょうど今、私は歯が痛いのです、きっと虫歯でしょう。歯が痛むこと自体、決して喜べることではありません。しかし、歯が痛むことでこれ以上ほかっておいたら大変なことになるぞ、今のうちに治療すれば歯を抜かずに済ませられるから、早く歯医者さんへ行きなさいと仏様が教えて下さるのです。
苦しみとは信号機のようなものです。お前の今の行いでは駄目だから早く正しなさいとブレーキをかけて下さるのです。
有り難いではないですか。喜べるではないですか。そう考えたら何だか歯の痛みも心地よく感じられるほどです。
与えられたものを感謝して有り難く受け取ることこそ苦を楽に変える唯一の方法なのです。
そしてそれを教えて下さる、世の中を守って下さる、世の中を導いて下さる仏様への感謝となって行くように心を向けなければなりません。
合 掌
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