「宝塔」第354号
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柔軟(にゅうなん)な心

 今、私たちを取りまく環境は豊かで便利だと言われています。確かに、少し歩けば物を買う場所はいくらでもあり、お金さえ出せば自分の気に入る品物を手に入れることは造作もないことでしょう。
 そのお金とて、ある程度の額は多くの人が持ち、それが豊かで便利だと言われる所以であります。
 街に出て歩いていると、若い女性からお年寄りまで、私はこれだけ高価なものを持っていますと言わんばかりに、見るからに高そうな服やハンドバック、時計や宝石を身に着け、風を切って歩く姿を目にします。
 他人のもの、他人のお金ですから私がとやかく申すつもりはないですが、華美に少し流れ過ぎているような、そして、外見と同様の内面の豊かさを持ち合わせているのだろうかと、甚だ疑問に思えてなりません。
 私に言わせれば、そんなに高い服や宝石で身を包まなければ、自分自身の価値が高められないのかということになります。
 世間の風潮とか他人の目が気になることも事実でしょうが、内面の豊かな人は特別に着飾らなくても、それなりの風格というか、けばけばしくない品の良さを感じさせてくれます。
 又、そんな人は安物を着ていても、高いと思うことはあれ、安いなどと見る人はいないでしょう。
 ぼろ布に包まれた金の仏像の話をご存じでしょうか。いくら、ぼろ布に包まれようと金の仏像は金の仏像で、見る人が見れば、その価値を見出してくれます。
 なんだ、ぼろ布に包むぐらいだから中身もくだらないものだろう、と思い込むような真価の分からない者に限って、高くて綺麗な布でくだらないものを包んでいるのです。
 包みをほどいて、びっくりされるような人間にならぬよう心掛けることが大切です。
 その為にも、自分の尺度を変えるように努力して下さい。
 外見にこだわる時間があるのなら、それを心という内面に向けてほしいのです。
  お釈迦様は経典(教え)の中に柔軟(にゅうなん)という言葉を何度も使っておられます。 その意味は、
 心が柔和で従順なこと(やわらかいこと。じゅうなん)。
 とされています。
 何となく想像できますが、釈然としない思いが残ります。
 そこで、この柔軟の意味をもっと分かりやすく具体的に表現すると三つの行いになります。

 一、不争(あらそわず)
 人と争うことはいけない。確かに、争っている人と人の顔や姿を見ていると、鬼のように見えることがあります。争っている時は、身も心も鬼のような恐ろしい生き物に変じているのかも知れません。
 人間であつて人間でない。容姿は人間でも、心の中は地獄に落ち、その表現は鬼畜に等しい。争う心は奪い取る気持ちであって、醜い心をさらけ出した状態に違いありません。
 他人のものを、他人の心を奪ってはいけないと戒めているのです。そして、鬼のような顔ではなく仏様のような顔になるよう心掛けたいものです。

 二、不求(もとめず)
 世の中には、すぐ人に求める者がいます。これぐらいくれてもよさそうなものだ。これぐらいもらっても、バチは当たらない。こんな求め心はおこすなということ。
 仏教でいう八苦(はっく;八つの苦しみ)の中に、求不得苦(ぐふとっく)という苦しみがあります。
 これは、求めても得られない苦しみのことで、得られるものなら求めなくても手に入る。しかし、求めても得られないものは、いつまで待っても得ることは出来ないその得られない時の心が、苦しみとなって我々人間を悩ますのだという考えです。
 不求も同じように、求めれば必ず苦の種となる。得られ与えられた時は良いが、その逆に期待外れに終われば愚痴を言って、相手を恨む結果となる。だから、最初から求めてはいけないと戒めているのです。
 又、ものだけでなく、心も同じです。これだけやっているのだから、感謝されても不思議はない。こんな気持ちを抱いてもいけないのです。

 三、不自示(自らを示さず)
 自分から自分を見せようとしないこと。誰しも、自分の悪い部分は隠したがるのに、良いところはすぐにひけらかす。どうだ、自分は立派なんだぞ、偉いんだぞ、と言わんばかりに自慢してはいけない。そんな態度をとってもいけない。
 たとえ本当にそれが立派であったとしても、見せびらかしては値打ちが下がるだけで上がることはない。しかも鼻に付くだけである。
 それより「能ある鷹は爪を隠す」で、とにかく謙虚であれという戒めであります。
 このように、争ってはいけない。求めてもいけない。自らを示してもいけない。この三つを実行してはじめて柔軟な心になるのです。

 このような柔軟な心を持っていれば外見にこだわらなくても、人は美しく見てくれるでしょう。
 もっとも、そんな人はさほど外見を重んじず心こそ第一と悟って心の豊かさ、心の幸福を願うに違いありません。 ところが、外見にこだわる人ほど柔軟な心を持ち合わせていないと言えるのです。
 あの服が欲しい、あのハンドバックが欲しい、あの靴がほしいと思うから買って身につけます。
 欲しいと執着する気持ちが、すでに求め心であり、
 「不求」反しています。
 どうせ、綺麗な服を買ったなら、高い宝石を買ったなら、人に見せたい自慢したいという気持ちになります。見せたい、示したいと思うこと自体、自示であり、「不自示」に反しています。
 自分の服や宝石を見せる相手も、それに関心のない人ではつまらない。
 どうせ見せるなら高価であることがわかる人が良い。そこで、そういう人に見せる。しかし、その人も高価なものが好きだから高価だとわかる。好きだから高価なものを買っている。自分が見せるつもりで会った相手がまたそれと同等もしくは、それ以上のものを持っていた。
 すると、おもしろくない。自分が見せようと思ったら相手も高価なものを持っていたのでは何もならない。
 今度は相手の持っていないような、もっと高価なものを買おうと思う。
 これは、争う心に違いありません。
 あの人よりも、この人よりも高価なものを集めたい、身につけたい、という気持ちは「不争」に反するのです。
 こんな心は無意味であると悟り、包むものではなく、包まれる自分自身を高価にする柔軟という気持ちを持ちたいものです。

                            合 掌

宝塔第354号(平成21年7月1日発行)