「宝塔」第356号
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怖畏(ふい)の悩みを離れて

 お釈迦様は法華経において「三界(さんがい)は安(やす)きことなし なお火宅(かたく)の如し 衆苦充満(しゅくじゅうまん)して 甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」と、迷える私どもの覚醒(かくせい)を促しています。そして、この怖畏多き人生は仏の教えに従うことによって「現世安穏(げんぜあんのん) 後生善処(ごしょうぜんしょ)」を得ることが出来ると示されています。
 いま飢餓や貧困に悩む国々が数多い世界の現状から見て、我が国は不況とは言え、他国に比べれば、まだまだ経済的に恵まれて、物質的生活は安楽のように見えます。しかし、物に恵まれているから「安穏(あんのん)」であるとは言えません。
 「安穏」というのは、心が安らかで豊かで、不安の思いに悩まされることのない、つまり「怖畏」の念から解放されている状態です。
 世の中には怖畏すべきことが充満しています。既に経済的不況の不安が色濃く、交通事故や犯罪の増加、不慮の災難や病気など、いま幸福だと思っていても、それが何時崩れるか分からない不安にさらされています。
 仏は人々にこのように説かれました。
 「世の中でいう「親知らず 子知らず」という場合が三つある。一には大火災が起こる。火の勢い烈しく、母は子を守れず、子は母を助けることが出来ない。二つには大暴風雨が起こって大洪水となる。水の勢いの烈しい所は、母は子を助けることが出来ず、子は母を守ることが出来ない。三つには強盗の集団が来襲する。村人は逃げ去って、母は子を見ることが出来ず、子は母を助けることが出来ない。しかし、これらの場合は、時として母と子が助け合うことが出来る場合もある」
 「ほんとうの「親知らず 子知らず」とは、「老い」と「病」と「死」との三つである。
 母の老いていくのを子供が「私が老いて、母が年をとらないように」とすることは出来ない。
 子供の病気を見て母が「私が代わりに病気になって、子供の病気が治るように」とすることは出来ない。
 子供の死を母が「私が死んで、子供が生きるように」と引き戻すことは出来ない。
 これが真の「親知らず 子知らず」である。しかし、この六つの「怖畏」を越え離れる道がある。それは即ち仏の正法である」
 「現世安穏」の道は、仏法によってはじめて得られます。
 日本は世界一の長寿国になりました。高齢者人口は千五百万人を超え、このうち五十万人は寝たきり老人ですボケや病気や孤独が老後を悩ませています。今若さを誇っている人も瞬く間に老いの世界を迎えねばなりません。
 あるスイスの学者は、人生は自然の四季の移り変わりと同じであるといっています。
 春は生成躍動の時、希望と情熱に燃える青春時代。夏は発展充実の時、家庭に仕事に深く根をおろしていきます。そして秋は大地に帰るべく、静かに実を結ぶ時、自分の人生の意味を知る内省の時であるというのです。
 人生の秋は、現世安穏のうえに更に「後生善処」の意味が大切になる時です。世俗的な利害の計算を離れて、精神的な平安を大事に考えねばなりません。
 それは仏法で「解脱(げだつ)」という透明な心の世界です。現世の欲望にまとわりついている執着の念から開放されることです。人生の秋はこれによって美しく、楽しいものとなるのです。
 インドでは古来、人の一生を四つの時期に分けています。
 第一は「学生期」で、人生はじめの二十年は、色々の事を勉強します。この時期は性愛は許されず、必ず純潔を守ります。
 第二は「家住期」で、一定の職業につき、結婚して、世継ぎの子をつくります。家庭的にも、社会的にも活動の時期で、世俗的な快楽も味わいます。
 第三は「林住期」で、一家のことは跡継ぎの子に任せ家を離れて林や森に住んで瞑想にふけります。宗教的な心の平安と悦びの世界を求めます。
 第四は「遊行期」で、職業も家族も世俗の縁は一切断ち切り、一所不住で、粗衣粗食、ひたすら教典を読誦し瞑想に入り、乞食の生活を送ります。
 ヒンドゥー教では、追求されるべき人生の価値として四つを挙げています。
 「富」と「性愛」と「理法」と「解脱」で、究極の理想は「解脱」を得ることとされています。
 人はみな老いていきます。仙崖は老いの哀れさを諷刺して、戒めています。
 身はふるう 足はよろめく 歯はぬける
 耳はきこえず 目はうとくなる
 聞きたがる 死にともながる さびしがる
 心はまがる 欲ふかくなる
 
 老いによって身体ばかりでなく、心も衰えてしまう人が多いのです。自分はもう不要な存在だ、厄介者だと、孤独感に悩み、心の空白に耐えられない思いをしている人が少なくないのです。
 しかし、老いは自分の人生の完結のとき、一代の働きが実を結ぶ時であります。即ち「熟年」であり「実年」であるのです。中国で「老爺」といえば、親方・旦那様と敬意ある言葉です。徳川時代には、大老、老中、家老あるいは老師など、みな要職に付けられています。
 「人は生理的下り坂にある時、実は精神的上り坂にある」とは、ある学者の言葉ですが、まさにその通りです。
 肉体には限界がありますが、心は無限に成長します。いたずらに身の老いを嘆いているのは愚かなことです。仏を信ずる人の心は老いることはありません。「この命は仏より頂いた命である」ことを信じているからです。我欲に捕らわれて、この命は我がものと思い込んでいますと、老死は大きな苦悩となります。
 「我に子のあり、我に財ありと、愚かな者は悩まさる。 我すら我のものとならざるを、いかで子と財のあらめやは」(法句経)
 この命、仏の命なりと覚えれば、今生の命を大切に使わさせて頂き、老いて死を迎えれば、仏の世界に帰ることができるのであります。
 「仏は常に此に在って滅せず」(法華経)と仰せられるように、何時でも仏は自分の傍らにいて下さるのです。仏が常に見守っていて下さることが覚えれたならば、老死の孤独に悩むことは一つもありません。
 人は死ぬまで生きています。生きている間は、この命を大切に生かすことです。その第一は「懺悔」です。自分が生きてくるために、どれほど他に迷惑をかけ、悩ませ、傷つけてきたことか、また自ら三毒の悪業を積み重ねてきたか、深く懺悔して、この身を清浄にすることです。第二は「感謝」の心です。今日までを生かさせて頂いたご恩は量り知れない大きなものです。仏の恩、親の恩、人々の恩、限りない恩恵を受けて生かされてきたことを感謝するとき、心は喜びにあふれ、さらに報恩の思いにかられるのであります。
 ある山村で、八十歳になる一人暮らしのお婆さんが、ある日、たくさんの足袋を根気よく繕っていました。それらはもう何度も繕ったもので、これ以上いくら繕っても、履けそうもないものばかりです。そのことを言うと「ハイ、長い間お世話になった足袋です。破れたままで捨てるのは、何だか申し訳ない気がしましてネ。こうして洗い、繕ってから捨てるのです」
 私共も長い間使わせて頂いたこの命を仏様にお返しさせて頂く時は、身につけた数々の罪の垢をきれいに洗い清め、一心に仏の教えを念じて、我が身に能うかぎりは報恩の善根功徳にいそしみたいものであります。
 即ち法華経の教えを信仰する人には、現世安穏、後生善処の道が開けているのであります。


                            合 掌

宝塔第356号(平成21年9月1日発行)