人間の生活には知識は確かに必要ではあるが、やる気がなければ役に立つことなく、宝の持ち腐れで終わる。やる気は努力であって、人は誰しも幸福を望み、それを成就させたいための努力はするのだが、残念なことにその努力の中に不平不満や愚痴や不足が充満していてはザルで水を汲むのと同じであって、何の実りを見ることも出来ない、それが解かっていながら守れないところに、人間の心の弱さがあると言えるのである。
素直さが、「真心」 を生み出す、その 「真心」 のこもった努力が幸福を生み出す母胎であることを熟知していなくてはならない。人はみな知識さえあれば幸福に成れると思いがちだが、知識は無いよりは有る方がよい、能力は悪いよりは良い方がいいのだが、問題はやる気の有無である。
エジソンはこれを「1%の能力と99%の努力が有れば事は成る」と言っている。
ある博士がこんなことを言っておられた。
後頭部
前頭部 *「宝塔」誌上の本文には説明イラストあり。
人間は知識第一と懸命に能力を働かせて知識を詰め込むことが全てと思い込んでいる人が多い様であるが、図にある様に前頭部の、物事を考え出す創造力や、それを表面の実生活に引き出して行く
「やる気」
の脳が発達していなかったら知識も生活にはプラスにはならないと言うことだった。
この説から言えることは、能力が有ってやる気の努力が有れば、それこそ “鬼に金棒”
と言うことになる。次が、能力は普通であっても、やる気の旺盛な人。第三は、能力はあるのだが、やる気の無い人。最後が、知識もやる気も弱い人と言うことになるが、諦めてはならないのは、三、四番に該当する人でも、やる気を出せば救われるのだから有り難いことである。
法華経の方便品に言辞柔軟(ごんじにゅうなん) 悦可衆心(えっかしゅうしん)とある、言葉はやさしく、人々に有り難いと思う喜びを与えることであって、これを言辞施(ごんじせ)の行として教えられているのだが、どうも言葉というものは毎日使っていても難しいものであって
「口は禍(わざわい)の元」 と言われている様に、確かに言葉は諸々の禍の原因に成るようである。「語るは是れ心」と言って、心の底に思いとして沈んでいるものが縁に触れて言葉となって出てくるものであって、思ってもいないのについ喋ったと言う人がいるが、これは間違いである。
また日常生活では、その時、その場に於いて的確に言葉を使わねばならないのに、つい簡単に終わらせたり、反対に余分なことを言い過ぎて失敗する場合もある。
私はよく弁当を持って出かける。或る朝のことに「弁当はいるか」と聞かれたので、「今日は先方で出るからいい」と答えて、30分ほどして迎えの車に乗った。朝と昼の講演を終えて帰宅した、まもなくして夕食が出された。その日はいつもと違って弁当の時のおかず入れの器がそのまま二つ並んでいるので、「これは何だ」と尋ねると、「今日は早く出かけるからいる、と言ったから用意しておいたのに持って行かなかったから夕食に出した」と言うことである。「今日は先方で出るからいい」と言ったことが余分だったのだ。「今日はいらない」でよかったのだ。余分な言葉が、今日は早く出かけるからいる、と聞こえたのだから、いくら言い張っても収まることはないので、「それは悪かったな」と言って事は穏やかに収まった。いい修行であった。
人間という動物は何故か人の悪口や陰口が好きなようである。ところで気を付けねばならないことは、人の悪口を言うことは自分の心に悪の巣が出来ていてそこから出てくるようである。ところが悪口を言う人達には全く罪の意識がないのだから恐ろしいことである。この悪口や陰口、噂というものは必ず本人の耳に入るようになっていて、悪口を言われた本人の耳に入ると怒り、憎しみ、恨みの思いは悪念となって、悪口を言った人の罪の巣に何倍か何十倍かに膨れ上がって返ってくるのである。
これを積み重ねて行けば悪の巣はやがて一杯になって現われて来て、老後から来世に至るまで、その罪業を引きずって生きて行かねばならないのである。このような罪の種まきをするのは、「下種(げす)のかんぐり」と言って心の卑しい人間に多いようである。これらの人々は、人の事を色々と勘繰(かんぐ)って陰口をたたいたり、悪口を言うことが心の卑しい下種の魂であるから、自分が信用して喋った相手が必ずまた他の者に喋ることを見抜くことが出来ないのである。
人間は誰しも幸福を願うのだから、決して悪い思いを何時までも心に積み重ねておかないで早く捨てて良い思いを育てるべきである。
良い縁を求めて生きる人は、その良縁が運命に現れて来ると「あの人は縁起のいい人だ」と言う。これは良い縁にふれ働きかけたことによって過去の良い因縁を引き起こすことが出来たからであって、反対に悪い縁に繋(つな)がると、悪い因縁を起こすから、あの人は「縁起の悪い人だ」と言われる結果が生まれてくることになる。こんな事は誰でも知っていることだが、知っていて行えない心の甘えと言うか弱さと言うのか、困ったものである。
その心に 「正命を守れ」 と教え諭される。正命とは「日々の生活に迷惑をかけないようにして、役立って生きる」ことである。
命(心)正しく生きて、人の為に役立つ事によって喜ばれて、生きる事の幸せを味わいながら励まねばならないのだから、口は慎み、言葉を生かすことである。
人はその一言によって、相手を生かすことも出来れば殺すこともあると言われているのだから、大いに言葉を以て人の為に役立って生きることである。
福 精神的な安らぎ
禄 経済物質の安定
寿 肉体的健康の喜び
この世に生きている限り、この福禄寿を求めぬ人はいないだろう。互いにこの福禄寿の幸福を求めながら、その行きざまは私欲の満足を願って、財を積み重ねたと思っていたら財が罪になっていたり、役得(やくとく)が悪得(あくとく)になって徳を失って身を滅ぼすことになる人が多いようである。
仏法では、自分にも欲望がある様に人にも欲望があるのだから、まず相手の欲望を満たしてやれば、その徳が自己の欲望を満たす良い結果を生み、共に幸福の世界に生きることが出来ると教えられている。
ここに長い箸(1メートル)がある。これを短く持つことは許されない。周囲には人々の求める幸福の食物が山のように存在している。自由にとって食べればよいのだが、なかなか取って食べることが出来ない為、身も心もガリガリに痩せて見る影もなく互いに飢え苦しんでいる。その時一人の男が自分の箸で食物をはさんで、前の人の口に入れた、自分の欲望を満たしてもらえたこの男が「ああ、この箸はこのように使えばよいのか」と気付いて、先に自分の口へ食物を入れてくれた男の方へ自分の箸で食物をつまんで差し出して共に満足を得たと言うように、人間は如何にこの長い箸を巧みに使うかによって幸・不幸が決定されて行くのである。
合 掌
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