「宝塔」第369号
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出船によい風は 入り船に悪い

 港を出て行く船にとって順風ならば、入って来る船は逆風を受けているわけで両者とも順風あるいは逆風ということは絶対にありません。人間とて同じで、自分自身にすべての都合が良いなどという事はないのです。或る一方が良ければ、必ず他方は悪くなり、一方が悪ければ他方は良くなるに決まっています。
 先日も、或る奥さんが、
 「うちの主人は、優しくて本当に有り難いです。どこかへ旅行に行きたいと言えば、それなら温泉にでも行こうかと、連れて行ってくれる事になりましたし、安い指輪が売っているから買ってもいいと聞けば、買ってもいいよと言ってくれます。私の言うことなら、何でも聞いてくれるので本当に楽しい毎日です」
 と言って帰られました。ところが、一週間ほど経った或る日、再び来られて、
 「ちょっと聞いて下さい。今日という今日は、主人に愛想が尽きて、もう我慢が出来ません。丁度旅行へ行く日、主人は会社が休みだったのに同僚から休日を代わってくれと頼まれて引き受けてしまったんです。せっかく、楽しみにしていた旅行なのに 行けなくなってしまいました」
 と怒りおさまるところがないという調子で話され、私も少々困ってしまいました。
 優しい人は、確かに誰に対しても優しいものです。自分にだけ優しいのではない事を理解しなくてはなりません。 世の中の人や物は、自分の見る目、立場によって良き人良き物となったり、悪い人悪い物となってしまうのです。
 人や物だけに限らず、どんな事でも同じでしょう。例えば、時(時間の経過)なども自分の置かれた状況によって有り難くもあり、有り難くもないと言えるはずです。
 この世は不思議な所で、昨日と何一つ変わりのない姿のように見えて、実はすべて変化しています。
 私自身も、毎朝歯を磨く時に必ず自分の顔を見て、昨日との違いはヒゲが濃くなった事ぐらいしか思い当たりません。そのヒゲを剃ってしまえば、昨日とまったく同じ顔です。いや、まったく同じ顔に見えます。ところが、五年前、十年前の写真に写った自分の顔と今の顔を見比べると、なるほど歳を取ったと感じずにはいられないのです。
 ほとんど変わらない毎日が、我々を油断させ、安心させて、その隙に大きな変化へと転じて、気が付いた時には二度と戻らぬ過去になってしまう。「あの時は良かった」等と、昔を思い懐かしむのも知らず知らずのうちに流れ去った時というものを実感しているからに他ならないでしょう。
 始めあるものは終わりありと言われるとおり、私たち人間も産声を上げて、この世に生まれた事実は必ず終わりが来ることを教えているのです。悲しくとも、辛くとも、誰もが一度は通らなければならない道なのです。
 
 散る桜 残る桜も 散る桜
 
 人も桜も、この世に縁あって生を受けた以上、縁が尽きれば、この世を去らなければなりません。それが、宿命なのです。
 このように、過ぎ去った時間を悲しく思う自分が存在することは事実ですが、時として時間の経過を望み、それを嬉しく思う場合があることも、又事実であるはずです。 
 恥をかいて、その場に居づらい思いをしている時などは早く時間が経たないかと、その事ばかりを考えますし、毎日が苦しくて仕方がない時も、新たな局面になるよう時の経過を待ち、その苦が無くなったら時間の変化を喜ぶことでしょう。
 何年も前の話ですが、ドイツのベルリンの壁が取り壊された時、確実に時代が変化した事実に対して、世界中の人々が歓迎したことは記憶に新しいですが、時間の流れは、悲しみや苦しみだけでなく、喜びをも生み出すのです。
 人も、物も、時も、そして出来事も、どれもが受け止める側、すなわち私たち一人一人の心の所存によって異なった事実と映るだけなのです。要するに、周りの環境は自分の心一つ、見る目一つで、どうにでも変わる、変えることが可能なのです。幸も不幸も同様に、我が心一つに係わっていると言えるでしょう。
 ドイツの哲学者ショーペンハウエルは、次のように言っています。
 
 人々は、自分の頭脳や心を養うためよりも
 何千倍も多く、富を得るために心を使っている。
 しかし、私たちの幸福のために役立つものは、
 疑いもなく、人間が外に持っているものよりも、
 内にもっているものなのだ。

 
 人の心がどれくらい大切で、どのように自分の世界を考えるのかといった問題に対しては、仏教者であろうと哲学者であろうと、同一の答えを導き出すようです。
 最澄の言葉にこんな言葉があります。
 
 悠悠(ゆうゆう)たる三界、純(もっぱ)ら苦にして安きことなく
 擾擾(ゆうゆう)たる四生(ししょう)、唯(ただ)患(わずら)いにして楽しからず
 
 この意味は、悠々と時が流れているこの世は、苦しみばかりで安らかなところがなく、唯さわがしく生きている、生きとし生けるものにとっては憂えることばかりで楽しみや安らぎがないと言っているのです。
 しかし、苦しみばかりで楽しみがないという言葉の裏側、すなわち、騒がしく生きている者という部分を考えねばなりません。
 それは、楽しみが来ることを待っていては苦しみばかりがやって来るのであって、楽しみを見つけに行く事が大切だということです。どう生きたら本当の安らぎが得られるのかを考え、それを実行する事が必要なのです。
 
 諸苦(しょく)の所因(しょいん)、貪欲(とんよく)これ本(もと)なり (法華経)
 
 つまり、欲を持つことが苦しみを生み出す本であって欲のない心で、欲のない目で世界を見ることが重要なのです。
 嫌な面、苦しい面のみ見るのではなく、その反面には好きな嬉しいことが存在することを見つけ出すように努力することです。欲心さえ抑えれば、必ず苦も楽と見えてくるはずです。

                            合 掌

宝塔第369号(平成22年10月1日発行)