“文底秘沈”とは、法華経には言葉や文字では表せない深い意味のものがあると言うことである。だから法華経の教えは、聞(もん)・思(し)・修(しゅ)を繰り返せと説かれている。よく聞くことを重ねて、正しく理解し、それを実行体験によって正しく修めると説かれている。本を読むことも良いことであり、お話を聞くこともまた必要である。教えに関することは、よく理解出来たものから行動に表現して行くことが絶対である。いかに尊い教えであっても言うだけであったらこれは“思弁(しべん)”といって実行もなく経験もないのに、知識だけでしゃべるだけのことであって、法華経の信仰をするには、これでは無に等しいのだから、よく分別して事をはかれと言う意味が理解してもらえると思う。
我々が幸福に成って行く為には先ず、やらねばならない幸福に成る条件というものがある。
* 親を労り
* お陰様と感謝して
* 仕事に励み
* 素直に生きる
この四つを日常生活に取り入れて行けば、必ず心が潤って来ることに間違いはない。親を労ることは人間が行える尊い行為であるが、これが出来ない様では、アホーアホーと鳴いているカラスより愚かであることになる。カラスは親は勿論、仲間でも年老いたり、病んだり、怪我したりして飛べなくて餌(えさ)を求めることの出来ない時は飛ぶことの出来る仲間が餌をもって来て与えるそうである。人間であれば当然出来る行為であるから、宜しく実践して頂きたいと願うものである。次にお陰様と感謝してとは、これは大自然の恵みによって全てのものが与えられていることを知り、先祖・親のお陰で自分の肉体があり、種々の知識は縁ある方々のお陰によるものであって、現在の生活に必要なものは同時代に生きる大衆の皆さんのお陰であることも忘れてはならない、と感謝するものである。そうして最後は素直に生きることとある様に、生活に出て来る諸々の出来事に怒りや愚痴・不足を言って心を濁(にご)らさないことである。濁った心で努力をしても得るところは少ないからである。素直にその出来事を受けて、心清らかにその状態の中から少しでも喜びを見出して努力せよ、三毒に毒されぬ清らかな心の努力はその実りも大きいと教えられている。
皆さんも、私も現在より幸福に成りたいと望んで努力している筈です。その為には絶対に慎まねばならないことがあると教えられます。それは“怒るな・不足言うな・欲張るな・妬(ねた)むな・恨(うら)むな・憎(にく)むな”と言うことです。この六つの事を守れば心も清らかで功徳の実りを得ることも出来るが、破れば破るほど実りの徳を失って行くことになる。この因果をよく知って頂きたいものである。人間が護られる徳を失った姿ほど淋しいものはない。だから法華経では、現代の人々に生命を絶たれてしまうほどの貪(むさぼ)りを断って、欲望の高ぶりを捨てよと教えているのである。
欲望の高ぶりは利己的な生活に溺れて誰からも見捨てられる結果になるから欲望を捨てよと導かれているのである。人は出世・成功・学歴・財力・権力を得る幸福を掴(つか)もうとする。幸いにして掴んだ人は、誇りの色を薄く、高ぶらず謙虚に、人には労りを厚く、自分には厳しく、真心を込めて仕事に励み、人に役立って喜びを与えた徳が自分を潤すことになるのだから精進に励めと教えられている様に、自分で不幸だと思っている人も、幸福に成りたい人も、すでに幸福に成っている人も、教えられた事を素直に行って励めばよいということがよくご理解頂けると思うのです。
人間には、仏に成る可能性があると言う。勿論、これはあくまでも可能性に止まるのであって、この可能性を活かすか、殺すかは各自の心の運びによるものである。可能性が有るというのは仏に成る種子があるという事で種子は軟らかい土の中で太陽の光りや地熱や水を与えなければ芽を出さない。この場合の土は人の素質であって、太陽の光りや地熱や水は仏の教えであり、そこに菩薩行の“実行”がなければ仏の芽は成長しないと言われている。
可能性で思い出すのは人間である。人間は善に向かっても悪に向かっても、無限の可能性があることを知らねばならないという。悪い事のどん底に落ちるのも人間ならば、向上して人から信頼されて幸せに栄えて行くのも人間であることは間違いのない事実である。
仏法はその人間として向上発展して行く道を説かれたものであるから、説かれている幸福への道を、素直に歩いて行くことである。人は何事も努力が必要であって、努力の無い所に繁栄はないのだから、大きな幸福を望む者ほど、強い信念と努力がいるのである。ところが現代人は、とかく楽をして幸福を掴もうとする。人をだましてでも、迷惑をかけてでも自分が幸福に成ればよい、楽になればよいと考えて、勝手に理屈をつけて力んでいる人も多い様である。
或る人がこんなことを言ったそうだ。
「俺が親不孝をして、その報いで子供が親不孝をしても俺は平気だ。金にさえ不自由しなければ、食って生きていけるから、俺の気ままに生きる」
と。なるほどごもっともな事だが、この人は人間も年老いることを忘れているようである。現在は四十代の若さで元気に事業もこなし経済的にも不自由はないだろうが、事業を営み、健康な肉体を持つ者が生涯その運びを絶対持続出来ると誰もが断言出来るであろうか。人間は年老いることを忘れてはならない、また無常を知らねばならないのだ。何故ならば個人の人生観と行跡が老後の運命を決定して行くからである。傲(おご)り高ぶった者の末は多く哀れな人生で終わる。
健康を誇り、親に対する子としての道を無視して、どうしてその者の老後に徳を備えることが出来るだろうか。よく聞くことだが、最後は金だ、年老いて若い者達が面倒を見てくれなくても、金さえあれば何とかなるから、金は持ってなくては、と力説する人もいるが、確かに金は無いより有る方がよい、それも少しより多い方がよい。しかし、もっと良いことは経済の豊かさにプラスしてその老人の心の豊かさである。徳を備えた人間性の豊かな老人には、若い者の方から心を開いて近づき、共に生きる心を起こさせる力が備わっている、それが徳である。我まま勝手な生活をして徳を失って行く人は、年老いて行くことすら気付かず、巨万の財を成した人であっても、金の価値すら分からなくなったり、肉体的に自由を失い子孫の者たちから財は取り上げられて心を寄せてもらうことも出来ない気の毒な老人の姿に俺だけはならないと誰しもが思っているのだが、先に出て来た、俺が親不孝をしてそれを見ていた子供が俺に親不孝をしても俺は平気だと言った人は、現在の一点を見た止まった考えしか出来ない人であるらしい。気楽と言うか、愚かと言うのか、願わくば気楽な人で、生涯を幸福に過ごした人だと言われる様な徳のある人であってほしいと願うものであるが、はたして天はそれを許して下さるだろうか、皆さんで考えて下さい。
法華経に説かれていることに“道を得よ”とある。道とは“ゆずる精神”であって、消極的なことではなく、自分も生きる力を養育しながら、人にもその道をゆずって共に栄える共存の心である。即ち道楽に励むことであって、この場合の道楽とは謙虚にして人と仲良くする道を楽しむと説かれており、ゆずる心には礼節があるとも言われているのだから、謙虚(ゆずる心)に礼節を生かして、大いに幸福である人ほど、自惚れを慎んで、現在をお陰様と感謝して、労りの心を豊かに、与えられた仕事に真心を込めて、素直に生きる自分を各自が精進によって養成して下さることを祈念するものであります。
合 掌
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